足利義政ってどんな人?
永享8(1436)年、室町幕府6代将軍・足利義教の三男として、義政は生まれました。正室は恐妻として有名な日野富子です。
8代将軍となった当初の義政は将軍の独裁権の強化を図るも、側近や母・妻の実家日野氏、守護大名たちの政治介入によって挫折を味わいます。やがてそれが彼の興味を政治から芸術へと逸らせてしまい、守護大名たちが好き勝手した挙句に「応仁の乱」を起こすこととなってしまったのでした。
8代将軍となった当初の義政は将軍の独裁権の強化を図るも、側近や母・妻の実家日野氏、守護大名たちの政治介入によって挫折を味わいます。やがてそれが彼の興味を政治から芸術へと逸らせてしまい、守護大名たちが好き勝手した挙句に「応仁の乱」を起こすこととなってしまったのでした。
しかし、義政は芸術に関する見識が高く、多くの芸術家のパトロンとなり、銀閣寺をはじめとする東山文化の形成に大きく貢献しました。ただ、戦乱や天災で幕府も民衆も困憊している中での銀閣寺建設などは人々の反感を買ってしまいます。
芸術面には優れた感覚を持ちながらも、政治感覚には恵まれなかった、というか感覚すら持とうとしなかった感はありますね。
そして、彼以降、幕府は衰退の道を歩むこととなるのです。
芸術面には優れた感覚を持ちながらも、政治感覚には恵まれなかった、というか感覚すら持とうとしなかった感はありますね。
そして、彼以降、幕府は衰退の道を歩むこととなるのです。
東山文化のわびとさび
義政が建てた銀閣寺の前身・東山山荘を中心に栄えた文化を東山文化といいます。質素や静かなものに奥深さや美しさを見出す、「わびとさび」の文化でした。対照的なのは、彼の祖父・義満が建てた金閣寺など豪華絢爛たる北山文化ですね。
能や茶道、華道、庭園や建築などほぼすべての分野で新たな潮流となった東山文化の中で、絵画では狩野派の祖・狩野正信などが世に出てきたのでした。庭園なら龍安寺や大徳寺の枯山水が代表的です。
能や茶道、華道、庭園や建築などほぼすべての分野で新たな潮流となった東山文化の中で、絵画では狩野派の祖・狩野正信などが世に出てきたのでした。庭園なら龍安寺や大徳寺の枯山水が代表的です。
義政ゆかりの地といえばやっぱり銀閣寺
文明5(1473)年に将軍職を退いた義政は、その9年後から東山山荘の建設を始め、芸術三昧の日々を送ります。これが銀閣寺の起源となる建物です。義政が延徳2(1490)年に没すると臨済宗の寺院となり、彼の法号「慈照院」より慈照寺と名付けられました。
現在私たちが認識している銀閣寺(銀閣寺という呼称自体は江戸時代から)は、正式には慈照寺観音殿という建物になります。木造2階建ての楼閣は、杮葺きの屋根と黒漆塗の壁で、てっぺんには銀製の鳳凰があしらわれています。
応仁の乱の直後にこの建設を始め、人々が疲弊していたにもかかわらず税や労役を課して造らせたため、義政のイメージは相当悪くなってしまいました。
現在私たちが認識している銀閣寺(銀閣寺という呼称自体は江戸時代から)は、正式には慈照寺観音殿という建物になります。木造2階建ての楼閣は、杮葺きの屋根と黒漆塗の壁で、てっぺんには銀製の鳳凰があしらわれています。
応仁の乱の直後にこの建設を始め、人々が疲弊していたにもかかわらず税や労役を課して造らせたため、義政のイメージは相当悪くなってしまいました。