第3回:名築城家・藤堂高虎の集大成!伊賀上野城・津城【月刊 日本の城】
2018年3月30日 更新

第3回:名築城家・藤堂高虎の集大成!伊賀上野城・津城【月刊 日本の城】

webサイト「日本の城 写真集」の管理人・けいすけが、日本の名城の見どころ、撮りどころを徹底的に紹介する連載「月刊 日本の城」。第3回は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将・藤堂高虎の築いた伊賀上野城・津城です。藤堂高虎は豊臣家と徳川家に仕えて信頼され、非常に多くの築城に携わります。その高虎が徳川家康から与えられた伊賀・伊勢の地に築いた拠点が伊賀上野城と津城で、共に高虎の築城術が味わえる名城です。そんな2城のオススメのポイントを写真を中心に紹介していきます。

けいすけ(日本の城写真集)けいすけ(日本の城写真集)

藤堂高虎

藤堂高虎

西の豊臣家に備えた伊賀上野城(三重県伊賀市)

藤堂高虎は築城の名手であると共に、数多くの主君に仕えたことで有名です。
豊臣秀長(秀吉の弟)に仕えて頭角を現し、秀長の死後は秀吉に仕えてさらに出世し、伊予国(愛媛県)に領地を持つ大名となります。さらに秀吉の死後、関ヶ原合戦では徳川家康につき、江戸幕府で重要な役割を果たす大名となるのです。

関ヶ原合戦後は、西の大坂には豊臣家が、東の江戸には徳川家がおり、にらみ合いを続けていました。家康は豊臣家の東進を警戒し、大坂から真東に位置する伊賀・伊勢の地に藤堂高虎を封じました。当時すでに、築城の名手とされていた高虎は、家康の期待に応えるべく、西の大坂から攻めてくるであろう豊臣家を防ぐために伊賀上野城を改修し、城の西側に高さ約30メートルの高石垣を築いたのです。

それほどの高さの石垣を築けるのも高虎の築城術の成せる技。高虎の築いた石垣を堪能すべく、伊賀上野城に、いざ出陣!

伊賀上野城へは大手から

伊賀上野城へ行くには、鉄道だと近鉄伊賀線の上野市駅から徒歩、車なら名阪国道からそれほど遠くありません。今回は、城の大手のある南側から訪城することにします。

城内に進むとまずは石垣造りの本丸表門が迎えてくれます。
【本丸表門付近の石垣】本丸表門の左右は石垣で固められている

【本丸表門付近の石垣】本丸表門の左右は石垣で固められている

via 写真提供:日本の城 写真集
【本丸表門跡のようす】味のある石畳。幅はかなり広い

【本丸表門跡のようす】味のある石畳。幅はかなり広い

via 写真提供:日本の城 写真集

撮影ポイント1:高虎が入城する前の筒井城跡

左に進めば天守ですが、まずは右に進み「筒井城跡」へ。
筒井城跡とは、藤堂高虎が入城する前に伊賀上野城を築いた筒井氏が城主だった時代に城の中心地だったところです。

【筒井城跡の石垣】

【筒井城跡の石垣】

via 写真提供:日本の城 写真集
【筒井城跡】石垣造りの郭

【筒井城跡】石垣造りの郭

via 写真提供:日本の城 写真集
【筒井城跡】

【筒井城跡】

via 写真提供:日本の城 写真集
【筒井城跡から見る天守】

【筒井城跡から見る天守】

via 写真提供:日本の城 写真集
この地域の歴史は古く、平安時代、城のある丘には平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院がありました。
また戦国時代は、天正7年(1579)、伊勢の織田信雄が8000の兵を率いて伊賀平定に乗り出しますが、伊賀衆の前に大敗(天正伊賀の乱)。2年後、信雄の父・織田信長は4万5000の兵で平定します。和田竜さん原作で、2017年に映画も公開された「忍びの国」でも描かれました。

撮影ポイント2:本丸に立つ大天守と小天守

59 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

けいすけ(日本の城写真集)

けいすけ(日本の城写真集)

Webサイト「日本の城写真集」(http://castle.jpn.org/)の管理人です。日本各地にある遺構の残る城や著名な城を訪問し、城の象徴である天守のみならず、様々な見どころの写真を撮って公開しています。みなさまに城の魅力が少しでも伝われば何よりです。日本全国444城、16,428枚の写真を収録(2017/9/4現在)。Twitterもやっています:https://twitter.com/castle_jpn 公式

関連する記事 こんな記事も人気です♪

【築城の名手は転職名人!?】藤堂高虎ゆかりの城とターニングポイント

【築城の名手は転職名人!?】藤堂高虎ゆかりの城とターニングポイント

「築城の名手」とよばれた戦国武将・藤堂高虎。豊臣秀吉や徳川家康に才能を買われ、数多くの築城に関わりました。一方で、7度も主君を変えた「裏切者」という評価もついて回ります。高虎が人生の岐路に関わった名城をたどりながら、たくましく生きた人生をたどってみましょう。
信長に信頼され、秀吉も恐れた!?稀代の戦国武将・蒲生氏郷

信長に信頼され、秀吉も恐れた!?稀代の戦国武将・蒲生氏郷

あの織田信長に見込まれた戦国武将・蒲生氏郷。もう少し長生きしていれば…と歴史好きなら誰もがそう思う名将です。その才能を重宝した秀吉も、実は内心恐れていたのではないかとさえいわれているほどなんですよ。近江で生まれ、伊勢、会津と転封となった氏郷のゆかりの地を巡りながら、彼の生涯をご紹介します。
「本能寺の変」勃発で最大の危機!?徳川家康、命がけの「伊賀越え」

「本能寺の変」勃発で最大の危機!?徳川家康、命がけの「伊賀越え」

京都・本能寺で起こった、最も有名な下剋上事件「本能寺の変」。このとき堺でわずかな家臣と旅の途中だった徳川家康は浜松へ逃げ帰ることを決断します。これが成功しなかったら日本の歴史が変わっていた!?家康の「伊賀越え」とそのルートをご紹介します。
【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

徳川家康を支えた四天王のひとり・本多忠勝。生涯、57回もの戦に出陣しながらも、かすり傷ひとつ追わなかったという伝説を持ち、その強さは、敵味方問わず賞讃と尊敬の的となった猛将です。名槍・蜻蛉切を携え、戦場を駆け巡った忠勝のゆかりの地を、彼の生涯と戦歴とともにご紹介していきたいと思います。
【織田信長最大のライバル!?】顕如と石山本願寺・石山合戦ゆかりの地

【織田信長最大のライバル!?】顕如と石山本願寺・石山合戦ゆかりの地

天正20年(1592)11月24日、織田信長と10年以上も死闘を繰り広げた石山本願寺のトップ・顕如が没しました。信長にとって、顕如は最大のライバルともいうべき脅威だったんです。今回は石山本願寺と石山合戦ゆかりの地、そして本願寺が西と東に分かれた経緯も交えてご紹介したいと思います。
武勇にも内政にも優れた加藤嘉明ゆかりの地と松山城

武勇にも内政にも優れた加藤嘉明ゆかりの地と松山城

加藤なら清正、というイメージが強いかと思いますが、忘れてはいけないのが加藤嘉明です。豊臣秀吉子飼いの武将として「賤ヶ岳の七本槍」に数えられ、また淡路水軍を率いて海戦でも活躍するなど、その武勇はかなりのものでした。寛永8年(1631)9月12日に亡くなった加藤嘉明の彼の人生と、松山城をはじめとするゆかりの地をご紹介します。
いざ天下分け目の舞台へ!戦国武将の聖地・関ヶ原の戦いゆかりの地を歩く(東軍編)

いざ天下分け目の舞台へ!戦国武将の聖地・関ヶ原の戦いゆかりの地を歩く(東軍編)

日本史上最大の合戦ともいわれる関ヶ原の戦い。戦国ファンではあれば一度は訪れたい聖地中の聖地・関ヶ原を西軍、東軍別に紹介します。陣跡が点在し、地形もよく残る関ヶ原を歩けば、当時の武将の気持ちになれる⁉︎ 400年前の激戦を肌で感じに、いざ出陣!
【西国無双の侍大将】かつて寵愛を受けた主を討った武将・陶晴賢

【西国無双の侍大将】かつて寵愛を受けた主を討った武将・陶晴賢

大内義隆に仕え、少年の頃はその美貌で寵愛を受けた武将・陶晴賢。長じて大内家の重臣となった彼は、やがて主に刃を向けることになります。しかし、下剋上を果たした彼の勢いは長くは続きませんでした。今回は、陶晴賢の生涯とゆかりの地をご紹介します。
兄・容保と最後まで幕府に尽くした、桑名藩主・松平定敬【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:第23回】

兄・容保と最後まで幕府に尽くした、桑名藩主・松平定敬【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:第23回】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第23回は、桑名藩主・松平定敬ゆかりの地を紹介します。高須四兄弟の末弟だった定敬は、京都所司代として兄である会津藩主・松平容保とともに幕府に尽くします。しかし戊辰戦争が始まると徐々に追い詰められ…。時流に翻弄された定敬の波乱万丈な生涯を、ゆかりの地とともにご紹介します。
日本遺産にも認定!『日本最大の海賊』村上海賊ゆかりの地でその魅力を体感しよう

日本遺産にも認定!『日本最大の海賊』村上海賊ゆかりの地でその魅力を体感しよう

かつて瀬戸内海において「日本最大の海賊」と言われた村上海賊。2016年、その本拠地である愛媛県今治市と広島県尾道市が共同で申請し、村上海賊のストーリーと「芸予諸島」に連なる43の構成文化財が日本遺産に認定されました。ただの“海賊”ではない彼らの活躍とは?小説の題材にもなり、近年さらに観光地として注目を集める村上海賊ゆかりの地とその文化をご紹介しましょう。