【築山殿、於大の方、千姫】波乱万丈!徳川家の女性たちゆかりの地
2017年11月19日 更新

【築山殿、於大の方、千姫】波乱万丈!徳川家の女性たちゆかりの地

一族の繁栄と生き残りをかけた戦国時代。武将だけでなく、彼らを取り巻く女性たちも、ときに翻弄されながら懸命に生きた時代でもありました。今回は徳川家康を取り巻く女性たちに注目。家康の正妻でありながら、非業の最期を遂げた築山殿。離縁され、別の家に嫁いでからも息子思いだった母・於大の方。7歳にして豊臣秀頼に嫁ぎ、波乱の人生を送った家康の孫・千姫。そんな3人の女性たちの生涯とゆかりの地をご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

本当に悪女だったの?家康の正室・築山殿

築山殿像

築山殿像

西来院蔵
徳川家康の正室の正確な名前は伝わっていません。「築山殿」というのは岡崎市の地名から由来するもので、「瀬名姫」といわれるのは、父親が今川氏の出である瀬名氏であることからきているようです。

築山殿の父は、瀬名義弘といい、のちに関口家の養子となり、今川義元の父・氏親からの偏諱を受けて名を改め、関口親永となります。母は義元の伯母とも妹ともいわれ、妹なら築山殿は義元の姪ということになります。また、肖像画や木像もないながら「色白の超美人」とも伝わっています。

そんな、今川のプリンセスともいえる築山殿は、当時は今川の人質だった家康(竹千代)と結婚することになります。この「格差婚」によって、義元は三河を傘下に納めたいという気持ちがあったのでしょうか。義元は、竹千代に「元」の一字を与えて元服させ、松平元信(後に元康)と名乗らせます。
やがて2人の間には、永禄2年(1559)3月6日に嫡男・信康、続けて永禄3年(1560)6月4日に長女・亀姫が誕生するのです。

波乱の幕開け・桶狭間の戦い

この亀姫が生まれる2週間前、桶狭間の戦いが起こります。築山殿にとっては後ろ盾である義元が亡くなったこと、さらには家康が駿府に戻らず、岡崎城に入ってしまうという二重のショックを受けるのです。その後、家康は、織田信長と「清洲同盟」を結びます。夫が今川家の仇と同盟を組んだということになります。

今川の人質同然だった築山殿と子どもたちは、家康が義元の娘婿である鵜殿氏長の城を攻め、その息子・氏次ともども人質にとったことで、交換が成功し、岡崎城に入ります。
そして永禄6年(1563)、義元からもらった「元」を捨て、「家康」に改名するのです。

そして悲劇へ……信康事件

このように家の立場が完全に逆転した家康と築山殿ですが、夫婦仲は悪くなかったとも伝わっています。

家康が浜松城に移った後も、築山殿は信康とともに岡崎にとどまります。
徳姫は天正4年(1576)には登久姫を、天正5年(1577)には熊姫を産みますが、息子が生まれないのを心配した築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた者の娘を、信康の側室に迎えさせます。

これに怒った徳姫が父である信長に手紙を書き、信長が家康に命じて、信康を切腹させた、というのが通説です。

天正7年(1579)9月15日に信康は二俣城にて切腹、築山殿はそれよりも早く、8月29日に佐鳴湖畔富塚村の小藪(浜松市中区)で、家康の家臣によって暗殺されます。

信康同様、築山殿暗殺も様々な説があり、悪女だったといわれることもあります。
いずれにせよ、家康は妻と子をほぼ同時に亡くすという悲劇に見舞われるのです。

築山殿ゆかりの地

罪人扱いである築山殿は、延宝6年(1678)に百年法要が行われるまで、ちゃんとしたお墓がありませんでした。しかも、首と胴体が別々に埋められています。

太刀洗の池とお墓のある西来院は、浜松城や元城町東照宮など家康ゆかりの地と合わせて、また首塚のある八柱神社は岡崎城と合わせてめぐるのがおすすめです。

血で染まった?太刀洗の池(静岡県浜松市)

太刀洗の池

太刀洗の池

JR浜松駅から遠鉄バス「医療センター」行き、終点下車、徒歩すぐ。
via 写真提供:浜松観光コンベンションビューロー
築山殿の暗殺に使った太刀を洗ったことから、「太刀洗の池」と呼ばれるようになった池。それからずっと赤く染まったとも、一気に枯れたともいわれましたが、百年法要が行われてからは、清水に戻ったと伝えられています。築山殿もうかばれたのかもしれません……。

100年後にできた墓・西来院月窟廟(静岡県浜松市)

西来院

西来院

JR浜松駅から遠鉄バス「舘山寺温泉」行き、「鹿谷町南」下車、徒歩15分。
via 写真提供:浜松観光コンベンションビューロー
首のない胴体は、御前谷に埋められ、塚の上に石地蔵が置かれただけだったといわれます。そして、百年法要の時、胴塚から掘り起こされた骨が埋められ、ようやくこの地に墓が建てられたのです。
月窟廟は、戦災のため焼失しましたが、昭和53年(1978)の400年忌に復元されました。
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