【謙信だけじゃない!】米沢藩を甦らせたスーパー藩主・上杉鷹山
2017年9月9日 更新

【謙信だけじゃない!】米沢藩を甦らせたスーパー藩主・上杉鷹山

米沢藩の藩主を務めていたのは上杉謙信の流れをくむ上杉家。そんな米沢藩には財政破綻の時期がありました。それを斬新な改革で甦らせたのが第9代藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん)です。その手腕はアメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが最も尊敬する日本人として挙げるほどでした。今回は、1751年(寛永4)9月9日に生まれた鷹山と、ゆかりの地を紹介します。

みのうち社みのうち社

関ヶ原後の米沢藩上杉家の危機

米沢城址

米沢城址

1238年(暦仁元)、長井時広の築城と伝えられる。松岬城あるいは舞鶴城とも称された。現在は本丸と二の丸の一部が公園となり、濠内には上杉神社や稽照殿(宝物殿)、上杉謙信像、上杉鷹山像などがある。
via みのうち社
上杉家は戦国末期、謙信の時代には越後を中心に勢力をふるっていました。謙信は妻子をもたなかったので、実姉の子である景勝を養子にします。

謙信の跡を継いだ景勝は豊臣政権の時代には越後から会津に移り、会津では120万石の所領高でした。
しかし関ヶ原の戦いで西軍の石田三成に味方した景勝は、敗戦後、家臣である直江兼続の領地であった米沢藩30万石に移封。その後、米沢藩は4代目から5代目藩主の引き継ぎの際、不備により15万石まで減らされてしまいます。

所領高が減らされていく一方で上杉家は特に対策をせず、120万石の頃のまま家臣を抱え、人件費は膨大だったようです。さらにしきたりを重んじる上杉家ではそれまでの慣習を改めず、支出を減らすことはなかったようで、ついには支出が収入を超え不足を借金で補うことになります。

米沢藩はまさに破綻寸前、危機的状況でした。
上杉謙信公之像

上杉謙信公之像

米沢城址にある上杉謙信の銅像です。
via みのうち社
上杉景勝公と直江兼続公 主従像

上杉景勝公と直江兼続公 主従像

こちらも米沢城址にあります。
via みのうち社

救世主登場!鷹山が行った改革とは

上杉治憲画像

上杉治憲画像

via 東京大学史料編纂所
第8代藩主重定(しげさだ)の頃の米沢藩は農民ですら逃げ出していくほど困窮しておりました。そのせいで当時の米沢の人口が激減したとも言われています。
農民という税源を失った米沢藩は立ち行かなくなり、重定は版籍を奉還することまで考えたようです。しかし周囲の説得により思いとどまり、重定は隠居します。

嫡子のいない重定の跡を継ぎ、第9代藩主となったのが上杉鷹山です。鷹山とは隠居後自らつけた号で、諱を治憲といいました。
鷹山は日向高鍋藩主・秋月種美(あきづきたねしげ)の次男として宝暦元年7月20日(1751年9月9日)に生まれました。母方が上杉家とつながりがあり、それが縁で上杉家との養子縁組みが決まりました。母方からの「普通の子と違い、とてもりこうな子がおります」といった内容の推薦が、重定に届いたようです。

明和4年(1767)に米沢藩主となった鷹山を助けたのは竹股当綱(たけまたまさつな)、莅戸義政(のぞきよしまさ)など、産業や財政に明るい忠臣たちでした。

同じ時期、徳川幕府では田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中となりその政策の結果、景気が向上しました。その反面、賄賂が横行する金銭中心の世の中になっておりました。その意次を失脚させ、倹約政策である寛政の改革を行ったのが白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)です。
独特な敗勢改革を打ち出す鷹山ですが、意次と定信といった正反対の政策から学ぶものがあったのかもしれません。
田沼意次

田沼意次

1719〜1788。10代将軍の徳川家治に仕える。1772年に老中に就任後、「田沼政治」と呼ばれる政治を展開。改革は進んだが、浅間山の大噴火などの災害や天明の飢饉によって多くの人が田沼意次の政治に不満を抱くようになる。1784年には息子である意知(おきとも)が江戸城内で暗殺され、その後の1786年には最大の後ろ盾であった将軍・家治が死去し、失脚。
via https://ja.wikipedia.org/wiki/
松平定信

松平定信

1759〜1829。御三卿である田安徳川家の初代当主の七男として生まれる。田沼意次の政治を批判したことで周囲から疎まれ、白河藩(福島県)に追いやれる。やがて白河藩主となり「天明の大飢饉」を乗り越えた手腕を変われ、再び江戸に戻り、11代将軍・家斉の老中に就任。「寛政の改革」を進めるも、幕府のみならず様々な方面から批判が殺到。そのため、将軍・家斉との関係も悪化し、老中就任6年後に解任されてしまう。
via https://ja.wikipedia.org/wiki/

わずか17歳で「大倹約令」を打ち立てる

上杉神社参道にある上杉鷹山公之碑

上杉神社参道にある上杉鷹山公之碑

via https://ja.wikipedia.org/wiki/
鷹山は藩主となった際、誓いの言葉として米沢の春日神社と白子神社に誓詞を奉納します。

春日神社に奉納した誓詞には、
・民の父母の心構えを第一とすること
・学問・武術を怠らないこと
・質素・倹約を忘れぬこと
・賞罰は正しく行うこと
とあり、白子神社には米沢藩を立て直すために大倹約を用いるという内容を誓っております。

そして、鷹山は誓詞の通り、12か条からなる大倹約令を発令、自ら実施していきます。

「江戸仕切料(江戸藩邸での藩主の諸経費)」を、それまでのおよそ7分の2にあたる1500両から209両までけずり、奥女中の人員整理をして50人を9人まで減らします。更に日常生活においても、食事は一汁一菜、衣服に木綿を使用するなど出来る限るの倹約し支出を抑えました。

藩主になってからわずか5カ月、鷹山はまだ17歳でした。

改革で農作物の収穫量アップ

倹約と同時に農業の開発にも乗り出した鷹山は、藩主自ら田を耕します。それに家臣も続き、荒れ地や新田の開発、堤防の修繕など進めていきます。また、城をはじめ武家屋敷に食物になるような植物を植えるよう命じ、武家の子女には機織りを習得させました。

農作物の収穫量アップに不可欠な人員の確保として、他の土地から百姓を移住させました。その百姓たちの生活が安定するまで住居をつくる際に必要なものや食料を与え、税制上の優遇処置を行い、地域に根付くよう力を尽くします。それまで多かった間引きを禁止し、出産を推奨することで人口も増加するのです、

さらに殖産産業を推奨する鷹山は、工芸品などの材料になり寒冷地でも栽培できる作物の育成に取り組み、織物、製紙、製陶などの産業をつくり出します。

改革が進む中、鷹山は藩の未来を担う若者の育成に乗り出し、1776(安永5)に藩校である興譲館(こうじょうかん)を創設します。そこでは才能ある武士の師弟が学び、多くの偉人を輩出しています。
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みのうち社

みのうち社

歴史好きなイラストレーター&ライター、デザイナー、編集者の3人組。 武将の城や偉人の史跡、神社仏閣、美術など、身近にあるものでも最大限に楽しめる「歴史エコ」な情報を発信していきたいと思います。 今後は、各種イベントや本の企画など、歴史にまつわる仕事をしていく予定です。よろしくお願いします! 公式

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