【織田信長最大のライバル!?】顕如と石山本願寺・石山合戦ゆかりの地
2017年11月24日 更新

【織田信長最大のライバル!?】顕如と石山本願寺・石山合戦ゆかりの地

天正20年(1592)11月24日、織田信長と10年以上も死闘を繰り広げた石山本願寺のトップ・顕如が没しました。信長にとって、顕如は最大のライバルともいうべき脅威だったんです。今回は石山本願寺と石山合戦ゆかりの地、そして本願寺が西と東に分かれた経緯も交えてご紹介したいと思います。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

顕如ってどんな人?

戦国大名並みの勢力を誇った顕如

戦国大名並みの勢力を誇った顕如

天文12年(1543)に生まれた顕如は、12歳のときに浄土真宗本願寺派11世宗主の座につきました。
浄土真宗の信徒は急増し、それに伴って信徒による一揆(一向一揆)が教団の意向とは関係なく起こるようになりますが、顕如の父・証如の頃からそのコントロールに努め、本願寺宗主の力は強まっていました。
顕如もまたその力を生かし、室町幕府や公家との結びつきも強めていきます。自身の妻には三条家出身の如春尼(武田信玄正室・三条夫人妹)を迎えました。

そういうわけで、顕如擁する本願寺は摂津国大坂の石山本願寺を拠点とし、大名並みの力を有する全盛期にありました。

しかし、そこに現れたのが織田信長です。
室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した彼の矢銭を求める要求に、いったんは従った顕如ですが、ついに石山本願寺明け渡しを要求され、我慢の限界に達したのです。

寺というより城だった!?石山本願寺

顕如の拠点だった石山本願寺は、天文2年(1533)に本願寺教団の本山として建設されました。

もともとは8世宗主・蓮如が隠居後、大坂での布教のために明応6年(1497)に建てられた大坂御坊が、やがて石山本願寺と呼ばれるようになったそうです。建物を造る際に欠かせない礎石となる石が多くあったことから、「石山」の名が付いたともいわれています。

その後、前の本拠地・山科本願寺が焼き討ちされてしまったため、本格的に石山本願寺に移ってきたのです。

寺といっても、顕如の父・証如の頃には、堀や土塁で囲まれた城郭都市に発展していました。石山本願寺城とまで呼ばれたとか。そばには信者や商人が集まり、寺内町が形成され、大坂の元にもなりました。その繁栄ぶりは、「日本の富の大部分はこの坊主の所有だ」とイエズス会士が手紙に書くほどだったそうです。

顕如が明け渡した後、寺は焼失しましたが、その要害の跡を利用し、大坂城が建てられたのです。
石山本願寺推定地

石山本願寺推定地

JR大阪城公園駅、森ノ宮駅から徒歩20分。
地下鉄谷町四丁目駅から徒歩15分。
大坂城跡地付近にあったと推定される石山本願寺跡は、現在は碑文が残されています。大阪市立修道館と大阪城大手門の間付近にひっそりと建っていますよ。まさに、夢の跡といった雰囲気です。

10年以上も戦った石山合戦

顕如が信長に石山本願寺の明け渡しを要求された頃、信長に追い出された三好三人衆が挙兵し、顕如も出兵して野田城・福島城の戦いが勃発します。これが石山合戦の緒戦となりました。

形勢不利となった信長は退却し、その後、彼と不仲になった足利義昭が各地に信長討伐令を出して、信長包囲網が形成されていくこととなります。
これに絡んだ一連の戦いが、石山合戦となるのです。

長島一向一揆

石山合戦の開始に伴い、長島でも一向一揆が発生しました。
一揆側は信長軍を苦しめますが、天正2年(1574)の第三次長島一向一揆に至り、信長は主力武将を投入し、降伏や逃亡した者をすべて殺害して一揆を鎮圧したのでした。

その後、天正元年(1573)の一乗谷城の戦いで朝倉義景、小谷城の戦いで浅井長政が信長に敗れ、同年に武田信玄も没し、信長包囲網は崩れていったのです。
「太平記長嶋合戦」

「太平記長嶋合戦」

一向一揆勢が拠点とした長島城は、現在、三重県桑名市の長島中部小学校・中学校となっています。今は説明板のみですが、学校の前を流れる川は堀だったとか。JR・近鉄長島駅から南に徒歩15分ほどの場所にあります。

また、この場所からさらに川沿いを歩き、国道1号線を横断すると、願証寺(願證寺とも)があります。ここには長島一向一揆殉教の碑が本堂の前に建立され、一揆の中心地だったことがわかります。
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