現存するのは日本でここだけ!江戸幕府の御役所が残る国史跡・高山陣屋(岐阜県)
2018年2月7日 更新

現存するのは日本でここだけ!江戸幕府の御役所が残る国史跡・高山陣屋(岐阜県)

周囲を北アルプスなど急峻な山地に囲まれた岐阜県・飛騨地方の高山市。中でも、江戸幕府の直轄地(天領)だった飛騨地方の行政を取り仕切っていた郡代役所「高山陣屋」は、当時の歴史を体感できる人気の観光スポットです。今回は、そんな江戸幕府ゆかりの地・高山陣屋の見どころをご紹介しましょう。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

国史跡高山陣屋(公式ホームページより)

国史跡高山陣屋(公式ホームページより)

飛騨国はもともと金森氏が治めていましたが、豊富な森林と金や銅などの地下資源に目を付けた幕府は元禄5(1692)年、当時の藩主である金森頼時を出羽国に転封し、飛騨地方のほぼ全域を天領としました。

当初は代官が派遣されましたが、見地で石高が増えたため安永6(1777)年には郡代役所に昇格します。幕府は全国に60余りの天領を持っていましたが、その中でも郡代が置かれたのは4か所(関東、美濃、西国、飛騨)だけだったことを考えると、幕府がいかに飛騨を重視していたかが分かりますね。

幕末まで郡代と代官合わせて25人が派遣されましたが、「飛騨の木を一本切れば首が一つとぶ」といわれるほど厳しい統治がなされたそうです。
室内の様子

室内の様子

高山陣屋は飛騨郡代が役所として使った建物で、もともとは金森氏の下屋敷でした。建物が当時のまま現存している郡代役所は高山陣屋だけ。明治維新後からなんと昭和の半ばまで、県庁など公的機関の事務所として使われていましたが、1970年以降は文化財として保存されることになります。約20億円をかけて行われた修復・復元工事は平成8(1996)年に完了。天保年間の絵図を基にして蔵番長屋や郡代役宅、奥座敷などが江戸時代の状態で復元されました。

今見ても素敵!高山陣屋の見どころとは?

雪の青海波。

雪の青海波。

高山陣屋には、たくさんの見どころが隠されています。

その一つは、壁やふすまに描かれた「青海波(せいがいは)」と呼ばれる波模様。格の高い武家屋敷にのみ描くことが許されたといわれる模様で、大名家でさえもはばかられたとされます。終わることのない波のように「徳川の世が永遠に続くように」との意味があるそうです。
「青海波」

「青海波」

部屋ごとに異なる畳の種類も、当時の身分制度の厳しさを物語っています。
陣屋のトップである郡代が政務を行う部屋は「柄入りの縁」のある高価な畳が敷かれていますが、下級役人が使う部屋に敷かれているのは「縁のない」地味な畳。さらに身分の低い人は、畳を踏むことすら許されなかったそうです。

また陣屋内は、出入り口が7か所、トイレは12か所と異様なほど多くありますが、これも身分によって細かく分けられていたためです。
拷問が行われていた場所なども・・・
興味深いのは米蔵の屋根。実は釘を一切使っておらず、木の板を並べて重しの石を載せるだけの造りとなっています。5年に一度、表裏と上下を変えることで同じ板をなんと20年も使えるようにする「板返し」と呼ばれる手法で、修繕をより簡単にしていたのです。

このほかにも館内には、150匹もいる魔よけの「真向兎」の釘隠しや、川の砂利を使った白くないお白洲など、見所がたくさんあります。
「青海波と真向兎」可愛い!

「青海波と真向兎」可愛い!

最近だとプロジェクションマッピングなどの試みもされていたそうです。面白そう!
もう雪吊りが始まっているそうです。
近隣では名物「陣屋だんご」という甘くないみたらし団子が売っているので、そちらもおすすめです。

何よりも、郡代役所の主要建物が現存しているのは全国でもここだけ!
国史跡に指定されているので、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

(黄老師)
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