第8回:時代に翻弄された皇女和宮と大奥の女性たち【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】
2018年3月30日 更新

第8回:時代に翻弄された皇女和宮と大奥の女性たち【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第8回は、皇女和宮ゆかりの地。幕末には、多くの人が時代の流れに翻弄されましたが、それは大名や志士たちだけではなく天皇家や公家も例外ではありませんでした。今回は、許嫁との婚約を破棄して徳川に嫁ぐこととなった、皇女和宮の生涯とゆかりの地とともに、大奥の女性たちについてもご紹介します。

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皇女和宮、6歳にして婚約

和宮親子内親王

和宮親子内親王

「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861)の内親王宣下に際して賜わった諱。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗ります。

和宮は身長143cm、34kgと推定される可愛らしい女性だったといわれます。
和宮は弘化3年(1846)、仁孝天皇と橋本経子の子として生まれました。しかし父の仁孝天皇は、和宮が生まれる前に亡くなったため、和宮は父と対面することは叶いませんでした。
そして父の死後すぐに天皇の座についたのが、母違いの兄である16歳の孝明天皇だったのです。
皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都府京都市)

皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都府京都市)

京都御所にある和宮生誕の地。
via 提供:小栗さくら
兄・孝明天皇から「和宮」の名を賜り、6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王との縁談が決まった和宮。のちに幕府から婚儀の支度料も届き、この婚姻は現実のものとなるかに思えました。
京都御所・有栖川宮邸跡(京都府京都市)

京都御所・有栖川宮邸跡(京都府京都市)

写真左奥に見えるのが建礼門。
和宮が生まれ育った橋本邸は、猿が辻の少し手前で、有栖川邸と近い場所にあります。

京都御所は、宮家・公家邸の位置関係や、蛤御門など幕末の舞台となった場所を感じられる場所です。かなり広いので、時間に余裕を持ってご散策ください。
via 提供:小栗さくら

突然訪れた婚約破棄

和宮の人生を変えたのは、外国船の来航でした。
安政5年(1858)には、幕府は日米通商条約の勅許(ちょっきょ/天皇のゆるし)を求めて、老中・堀田正睦(まさよし)が上京することとなります。孝明天皇はこれを承認しない意思を示していましたが、結果的に大老・井伊直弼の判断で条約は調印されることになりました。

当然天皇は違勅であることに怒り、譲位を示したり内勅を出すなど、朝廷内部は「宮中の乱」と記される事態になってしまいました。
その後も天皇と幕府の間でやり取りは続き、次第に公武一和(公武合体)へと話は進んでいくこととなります。公武の公とは朝廷、武は幕府のことです。その結果孝明天皇は、幕府が攘夷を実行するのであれば、皇女を降嫁させようと決意するのです。

孝明天皇の決意

孝明天皇

孝明天皇

徹底的に攘夷を貫いたといわれる孝明天皇。
安政6年(1859)、和宮が有栖川宮家に嫁ぐのは翌年だと定まっていました。ところがいざ、その年になると、朝廷と幕府の間で和宮降嫁の話が進みます。孝明天皇は「すでに有栖川宮と婚約していて破断できない」など、いくつか断る内容を伝えましたが、幕府は攘夷決行には和宮降嫁が必要だと訴えたのでした。

当初は徳川に降嫁するのは孝明天皇の娘・富貴宮(ふきのみや)が考えられていましたが、前年、生まれて間もなく命を落としてしまったのです。

降嫁を辞退しようとした和宮

青年期の有栖川宮熾仁親王

青年期の有栖川宮熾仁親王

和宮との婚約が破棄となった熾仁親王は、明治維新後、徳川慶喜の妹の貞子を、最初の妃として迎えることとなります。
和宮は、徳川への降嫁を伝えられると、「幾重にもお断りしたい」「天皇のお側を離れて遠い場所に行くのは心細い」など切実な思いを伝え、降嫁を辞退しようとしました。

しかし天皇は、和宮がもし有栖川宮に嫁ごうとしても自分がそれを拒否する、自分は譲位するので和宮は尼になるといい、と伝えたとされています。
このように和宮に決断を迫りながらも、一方で生まれたばかりの自分の娘・寿万宮に代えることはできないか計らってみたりと、天皇なりに異母妹への気遣いがあったようです。しかしそれが叶うことはありませんでした。

和宮は縁談を承知するかわりに、「万事御所の風儀を守ること」など5カ条の条件を出したのでした。
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小栗さくら

小栗さくら

中学生時代に司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』を読んで以来、歴史に興味を持つ。 駒澤大学歴史学科卒業と同時に博物館学芸員資格を取得。 現在『歴史タレント』として、TVやCMに出演。また、イベント司会、講演会、コラム執筆と幅広く活躍中。 諏訪市公認キャラクター・諏訪姫の声優も務めている。 タレント活動と並行し「さくらゆき」というアーティスト名で歴史をテーマにした楽曲の発信、ライブ等を行っている『歴史系アーティスト』でもある。 公式

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