義の武将・大谷吉継ゆかりの地、福井県敦賀市を巡る 
2017年4月3日 更新

義の武将・大谷吉継ゆかりの地、福井県敦賀市を巡る 

豊臣秀吉に「百万の兵を与え自由に采配させてみたい」と言わしめた名将・大谷吉継。NHK大河ドラマ『真田丸』では、片岡愛之助さんが演じた刑部こと吉継と、治部こと石田三成が無二の親友として描かれ人気を博しました。命を懸けて貫いた友情と義。その清冽な生き様に魅せられた熱烈なファンが多いのが大谷吉継です。今回は吉継が天正17(1589)年から12年間統治した5万7千石の城下町、福井県敦賀市にある吉継ゆかりの地を訪ねてみましょう。

重久直子重久直子

今回ご紹介する大谷吉継ゆかりの地はこちら

・敦賀城の跡。真願寺と敦賀市立西小学校
・吉継が篤く崇敬した八幡神社
・敦賀城の城門が残る来迎寺
・吉継の菩提寺。吉継の供養祭が行われる永賞寺
・よっしーグッズも販売。みなとつるが山車会館
・駅でファンをお出迎え!「SL吉継号」顔出しパネル

大谷吉継。関ヶ原の合戦に至ったわけとは?

『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』 大谷吉継の錦絵

『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』 大谷吉継の錦絵

大谷吉継は近江(現在の滋賀県)出身で、少年の頃に近江長浜城主の羽柴(豊臣)秀吉に見いだされたと考えられています。

秀吉子飼いの武将といえば、秀吉の遠縁の子の加藤清正や福島正則が有名ですが、彼らは武断派(つまり脳筋?)、一方吉継や石田三成らは文治派(つまりテクノクラート?)だったといわれています。

吉継は秀吉の家臣として、天正5(1577)年の播磨攻略、天正6(1578)年の三木城攻め、天正10(1582)年の備中高松城の水攻め・美濃攻略・紀州攻め、天正15(1587)年の九州征伐、天正18(1590)年の小田原攻めと、天下統一事業の主力として活躍しました。
また、兵站(へいたん)という後方支援の方でも能力を発揮し、数字にも強いことから奉行としても重宝されます。

やがて秀吉が天下を統一し豊臣政権が樹立すると、槍働きより全国を統治する官僚としての能力が必要とされるようになりました。
その頃から秀吉の側近官僚として活躍する三成と、武断派の清正や正則らが対立するようになり、秀吉の死後、徳川家康によって豊臣家は分断、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に至ったといわれています。

その関ヶ原の戦いで、不利と知りながらも三成との友情を選び、義を貫いて壮絶な最後を遂げたのが大谷吉継です。
石田三成

石田三成

ではなぜ吉継は三成との友情を選んだのでしょうか?

吉継はライ病(ハンセン氏病)という不治の病を患っていました。天正15(1587)年に大坂城で開かれた茶会で、皆で茶碗を廻しながらお茶を飲む濃茶の作法中、吉継の顔の膿が茶の中に落ちるというアクシデントが起きました。

皆が病気の感染を恐れ、茶を飲むのをためらう中、三成がその茶椀をとって一気に飲み干し、「美味しい茶だったので全部飲んでしまった」といって吉継の窮地を救った、という逸話が残されています。

その時吉継は、「三成のためなら死ねる」と呟いたといわれています。

敦賀城の跡。真願寺と敦賀市立西小学校

天正13(1585)年、秀吉が関白になった時、吉継は従五位下刑部少輔に叙任されました。

吉継は天正17(1589)年に北国の軍事・物流の重要拠点だった敦賀を任されると、敦賀の町や港を整備し、敦賀城を三層の天守のある水城に大改修しました。

敦賀の町は笙の川(しょうのかわ)と児屋川(こやのがわ)の間が商業の中心地として整備され、笙の川の西側に敦賀城や武家屋敷などがおかれました。

町は朝鮮出兵の兵站基地になったり、伏見城築城で使用する木材を東北地方から輸送する際の拠点になるなど、大いに賑わいました。

敦賀城の広さは、西小学校・真願寺・八幡神社・市立敦賀病院を含む南北500m、東西300mに渡り、現在の結城町一帯が本丸だったといわれています。

真願寺には石碑があり、城の礎石が残されています。真願寺から歩いて5分程の敦賀市立西小学校の敷地からも近年敦賀城の礎石が出土し、石碑が建てられています。

吉継は敦賀城主となってからも、天正18(1590)年の小田原攻めや奥州仕置き、天正19(1592)年の朝鮮出兵など、忙しく活躍しました。しかし文禄3(1594)年頃から病状が悪化したようで、5年間程表立った活躍が途絶えています。

しかし慶長3(1598)年の秀吉の死後、病状が安定し、世の情勢を見極めながら、徳川家康と前田利長の仲を取り持ったり、宇喜多家中の騒動を調停したりといった活躍をしています。

慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、敦賀城を拠点に北国口を抑え、優れた戦術によって加賀(石川県)の前田利長の大軍を封じ込めることにも成功しています。

吉継が篤く崇敬した八幡神社

西小学校から更に5分程歩くと八幡神社があります。敦賀城主となった大谷吉継はこの八幡神社を敦賀城の鎮守としました。

敦賀は古代から日本と大陸をむすぶ玄関口であり、北陸地方と畿内を結ぶ拠点でもありました。古事記や日本書紀にも記され、神功皇后や応神天皇、竹内宿禰に関する話が多く残る、古代史上大変重要な役割を担った地です。

この八幡神社も神功皇后摂政13(213)年、皇子だった応神天皇が氣比神宮(けひじんぐう・敦賀市曙町)を拝した際に、仮宮を設けた場所だと言われています。
古くから皇室や武門の崇敬が高く、元寇の時には戦勝が祈願され、織田信長も朝倉攻めの時に日本刀外装(県指定文化財)を奉納しました。

ここには吉継が奉納した石鳥居や石灯籠、本殿の欄間飾りの龍の彫り物、また敦賀城跡から掘り出された茶壷などが残されています。

また境内にある「敦賀郷土博物館」には、宮司さんが長年かけて収集した甲冑や兜、近くの古墳から出土した鏡や剣、敦賀最古の狛犬など、敦賀の歴史に関するもの約3000点が保管されています。
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重久直子

重久直子

歴史ライター&シナリオライター。歴史系ウェブサイトや歴史雑誌に原稿を寄稿したり、映画やドラマに関する活動をしています。幕末や戦国時代、会津や土佐、鹿児島、北陸、出雲、澁谷、神社などに特に興味があります。歴史を知ると自分のことも誇れるようになると思います。そして自分や自分の祖先、そして住んでいる町のことも、もっと好きになると思います。祖先達が見てきた様々な時代を、祖先達から受け継いだ自分の細胞、一つ一つで感じていきたいと思っています。

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