【 細川家の関ヶ原の戦い 】実は滅びる寸前だった!細川忠興ゆかりの地・中編
2018年1月19日 更新

【 細川家の関ヶ原の戦い 】実は滅びる寸前だった!細川忠興ゆかりの地・中編

慶長5年(1600)、会津征伐から始まる関ヶ原の戦いが勃発。丹後田辺、大坂玉造、豊後杵築、江戸、そして、関ヶ原と分断されての戦いを強いられることになった細川家は、国が攻め込まれ滅亡寸前に…!細川忠興の丹後時代を紹介した前編に続き、今回は5カ所に分かれて戦った細川家の関ヶ原合戦を中心に、忠興ゆかりの地をご案内します。

高桐みつちよ高桐みつちよ

細川忠興

細川忠興

関ヶ原の戦い勃発!人生最大の危機到来

慶長3年(1598)、豊臣秀吉は病没。そして翌4年(1599)には前田利家も亡くなり、天下は徳川家康一強時代を迎えます。
そうならないために五大老の合議制としたはずなのですが、他の大老たちは家康よりも若く、家康に意見できる者はほとんどいませんでした。

このころの忠興は、長男忠隆が前田利家の娘の千代姫を娶っていたことから、前田派と見られていたようで、実際に利家の跡を継いだ利長とは昵懇の間柄でした。
前田利家の長男・利長

前田利家の長男・利長

父亡き後、加賀藩主となり「加賀百万石」を実現させた名君でもあります。

豊後に飛び地を得て加増されるも、まわりは敵だらけ?

慶長4年(1599)11月。そこに事件が勃発。
なんと、前田家に謀反の疑いがかけられます。

慌てた利長が母のまつ(芳春院)を人質に出した話は有名ですが、実は、この事件と連動して細川家にも疑いがかかってしまい、またしても巻き込まれ被弾。

このとき人質として江戸に向かったのが、後の肥後細川家初代となる忠興の三男忠利でした。結果として、忠利は徳川秀忠と繋がりを持つことができ、功を奏するのですが、忠興はまさか謀反の疑いをかけられるとは思ってもいませんでした。

この迅速な対応の褒美として、細川家は12月に豊後杵築(大分県杵築市)6万石を得ることになります。
杵築城(大分県杵築市)

杵築城(大分県杵築市)

杵築城は、別府湾を望む国東半島の付け根にあります。
江戸時代の街並みが残る風情豊かな街で、城部分と街部分がそれぞれ別の小山の上にあるのが特徴です。
国東半島の海沿いには、石垣原の戦い直前に黒田如水が落とした城が点在しているので、あわせて巡ってほしいです。
via 撮影:高桐みつちよ
丹後宮津12万石と合わせて18万石。大大名とまでは言わないものの、中堅大名としては十分な領地です。
ちなみに、年齢が近く、終生のライバルとも言われる黒田長政は、国東半島の向こう側、豊後中津(大分県中津市)12.5万石。中津城には隠居した如水がいました。

この頃はまだ仲がよかった細川家と黒田家

黒田如水(官兵衛)

黒田如水(官兵衛)

慶長5年(1600)3月に豊後杵築城を受け取り、城代は有吉立行、検地の手伝いとして家老の松井康之を派遣し、忠興も4月に杵築を訪れています。
豊後は大友家改易後、豊臣系の小大名が乱立している地域で、忠興が懇意にしている大名は、中津の黒田と熊本の加藤清正だけでした。

忠興が杵築に置いた戦力は500人余り。この地域で戦いになればひとたまりもない規模です。
とはいえ、飛び地に戦力を割くわけにもいかず、忠興は有吉と松井に「何かあれば如水に救援を求めること」と伝えており、如水にも以下のように伝えていました。
如水佐田へ出迎ひ饗応あり、佐田は木付の近所なるが故、御心を附らるへき由を忠興君御頼被成

(如水が佐田(母里太兵衛の城・宇佐市)で出迎え、饗応があった。「佐田は木付の近所なのでくれぐれもよろしくお願いします」と忠興君は伝えられた)
via 綿孝輯録
細川と黒田は、江戸期を通じて仲が悪かった大名家として有名なのですが、このころはまだ普通にご近所づきあいをしていました。長政と忠興も本人たちは可もなく不可もなくのような関係だったと思われます。

有吉と松井は細川家の重臣中の重臣で、忠興の指示がなくても動ける人材としての起用。
忠興はなんとなく戦が起こりそうだという気配を感じ取っていたのではないでしょうか。この判断が的中することになります。

忠興が松井を置いて宮津に帰ろうとしたところで、宮津から「会津征伐」の急使がやってきます。
関ヶ原の戦いの勃発です。
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高桐みつちよ

高桐みつちよ

「歴史をポップに楽しみたい!」オタクカルチャーを交えて歴史コンテンツを発信する歴女ユニット「武蔵守歴女会LLP」所属。肥後細川家と石田三成をこよなく愛する歴史ライター時々マイ甲冑武者。関ケ原町を拠点とする甲冑武者団体「関ケ原組」での活動を経て、現在は甲冑劇の脚本演出を行っている。関ケ原合戦祭り『関ケ原合戦絵巻』(2014~)、関ケ原七武将物語(2015~)脚本演出。『真田幸村の系譜(河出書房新書)』執筆協力。 公式

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