【旧領回復は戦国武将ただ一人!】皆に愛された立花宗茂ゆかりの地
2017年3月23日 更新

【旧領回復は戦国武将ただ一人!】皆に愛された立花宗茂ゆかりの地

現在も福岡県柳川市に残る立花家。柳川藩の祖である立花宗茂は、関ヶ原合戦で一度柳川を失い浪人したにも関わらず、陸奥棚倉で大名に復帰し、旧領・柳川の復帰を実現します。大友家、豊臣家、徳川家から絶大な信頼を得た宗茂の生涯をご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

立花宗茂の晩年の肖像画。

立花宗茂の晩年の肖像画。

大友家の柱!実父・高橋譲運と養父・立花道雪

立花宗茂は永禄12(1569)年(※10年との説もあり)、豊後国大友家の重臣、高橋紹運の長男として生まれました。高橋紹運は、歴戦の猛者と名を馳せ、わずか700余りの兵で島津軍5万に立ち向かい壮烈な最期を遂げた人物です。
高橋紹運像(天叟寺所蔵)

高橋紹運像(天叟寺所蔵)

その血筋に目を付けたのが、男子に恵まれなかった大友家の重臣、戸次(立花)道雪。紹運は最初は断るものの道雪の熱意に断り切れず、天正9(1581)年に道雪の養子となります。

この戸次道雪は大友家の大黒柱として知られます。歴戦の武功が認められ、当時「西大友」と呼ばれた立花家を継ぐことになりました。ただ、裏切った立花家を平定した後だったため、道雪は立花姓を名乗らなかったようです。大名である大友宗麟に対して幾度と諫言し、落雷を刀で斬ったという伝説が残るほど、豪胆な人物であったといわれています。
立花道雪像(福岡県柳川市福厳寺所蔵)

立花道雪像(福岡県柳川市福厳寺所蔵)

2人の父の死を乗り越え豊臣家の信頼を得る

転機が訪れたのは天正13(1585)年。この頃は大友家が防戦一方で、薩摩の島津軍が勢いに乗って北上を進めている時期でした。

その最中、戸次道雪が陣中で亡くなります。天正14(1586)年には、高橋紹運が守る岩屋城も陥落しました。対島津軍の最前線になる岩屋城をあえて紹運は選び、立花山城に籠る宗茂を守ったとされます。
岩屋城跡

岩屋城跡

高橋紹運の家臣の子孫により建てられた「嗚呼壮烈岩屋城趾」な碑が残ります。
via takeyabu
紹運の努力の甲斐あってか立花山城は落城をまぬがれ、豊臣秀吉の軍勢が到着、秀吉軍のもとで島津攻めに加わりました。立花家は大友家から独立し、筑後柳河に新たな領地を得ることになるのです。その後の朝鮮出兵にも従軍し、豊臣家にとって頼れる存在であったようです。

久しぶりの城攻め❗ 山頂からの景色最高😃⤴⤴ #立花山城#立花宗茂#景色最高❗❗

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関ヶ原合戦後の浪人から悲願の旧領復帰!

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では西軍(豊臣方)につきました。近江国大津城の京極高次が東軍に寝返ったため、大津城攻めに参戦。大津城を攻略しますが、関ヶ原合戦には参加できませんでした。

西軍敗戦の報を聞き大坂城に入城するものの、結局柳川に帰還。加藤清正等と戦いますが、清正の要請を受けて開城しました。妻や家臣の多くが清正に預けられる一方、宗茂は上洛し徳川家康の許しを得るのを待つことになります。

改易後、浪人となり加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるも謝絶。その後、家康の嫡男・秀忠の御伽衆となり陸奥棚倉に1万石を与えられて、ついに大名に復帰。元和6(1620)年には、念願の柳川の旧領に復帰することになります。数多くの武将の中で、旧領を回復した大名は立花宗茂ただ一人です。
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