島津四兄弟の長男・義久
島津義久は、天文2年(1533)に島津貴久の長男として誕生しました。次男が義弘、三男が歳久、四男が家久となります。
幼い頃は大人しい少年だったようですが、祖父・日新斎は彼を「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将の材徳自ら備わり(略)」と評しており、当主としての器を早くから見込まれていたようです。
実際、義久は、「軍神」とまで呼ばれた弟の義弘とは対照的に、ほぼ国許で事の仔細を見渡し、指揮を執っていました。
幼い頃は大人しい少年だったようですが、祖父・日新斎は彼を「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将の材徳自ら備わり(略)」と評しており、当主としての器を早くから見込まれていたようです。
実際、義久は、「軍神」とまで呼ばれた弟の義弘とは対照的に、ほぼ国許で事の仔細を見渡し、指揮を執っていました。
義久の器の大きさがわかる弟たちとのエピソード
また、弟たちとの逸話にも彼の器の大きさが垣間見られます。
ある時、弟たちと狩りに出かけた後、馬を眺めていた時のこと。
歳久が、「馬の毛色は母馬に似ているようだが、人間も同じでしょう」と口にします。
これは、家久のみが妾腹だったことを当てこすったわけですが、義久はそれに対し、「そうでもなかろう。父に似る者もいるし、何より人には徳があるのだから、それを磨けばみな優れた人間になれるものだ」と答え、歳久を暗にたしなめ、家久を庇ったのでした。
これに感激した家久は、以後学問と武芸に励み、島津屈指の名将に成長したのです。
ある時、弟たちと狩りに出かけた後、馬を眺めていた時のこと。
歳久が、「馬の毛色は母馬に似ているようだが、人間も同じでしょう」と口にします。
これは、家久のみが妾腹だったことを当てこすったわけですが、義久はそれに対し、「そうでもなかろう。父に似る者もいるし、何より人には徳があるのだから、それを磨けばみな優れた人間になれるものだ」と答え、歳久を暗にたしなめ、家久を庇ったのでした。
これに感激した家久は、以後学問と武芸に励み、島津屈指の名将に成長したのです。
島津四兄弟の生誕地・伊作城(鹿児島県日置市)
本丸にある四兄弟の誕生石
伊作家の居城として築かれたとされる城。祖父・日新斎、父・貴久、そして四兄弟の生誕地でもあります。
南北朝時代から戦国時代にかけて増築され、最盛期には城域全体の面積が50万平方mという広大な規模を誇っていました。本丸付近は亀丸城とも呼ばれています。
南北朝時代から戦国時代にかけて増築され、最盛期には城域全体の面積が50万平方mという広大な規模を誇っていました。本丸付近は亀丸城とも呼ばれています。
via 写真提供:日本の城 写真集
家督を継いだ義久は、弟たちと共にまず三州の統一を成し遂げ、その次に九州制覇へと乗り出しました。島津の快進撃が始まったのです。
義久考案の戦法が炸裂した耳川の戦い
天正6年(1578)、義久は強敵・大友宗麟を耳川の戦いで撃破しました。この際、彼が考案したとされる「釣り野伏せ」戦法が炸裂したのです。
釣り野伏せとはまず、軍を3分し、2つを左右に伏せさせ、中央部隊が退却を装い敵の追撃を誘います。敵が突出してきたところに左右2隊が襲い掛かり、反転した中央部隊と三方から敵を全滅させるという作戦です。
この戦法は、多くの戦で用いられました。関ヶ原の戦いで義弘が決死の中央突破を図った際にも使われたのです。
釣り野伏せとはまず、軍を3分し、2つを左右に伏せさせ、中央部隊が退却を装い敵の追撃を誘います。敵が突出してきたところに左右2隊が襲い掛かり、反転した中央部隊と三方から敵を全滅させるという作戦です。
この戦法は、多くの戦で用いられました。関ヶ原の戦いで義弘が決死の中央突破を図った際にも使われたのです。
島津魂炸裂!岐阜県に残る「島津の退き口」ゆかりの地 - ユカリノ

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