【 密かに信長も手本にしていた!?】「東海の雄」今川氏ゆかりの地
2017年5月19日 更新

【 密かに信長も手本にしていた!?】「東海の雄」今川氏ゆかりの地

2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」にも登場している今川氏。遠江の国人である井伊家の主家として、直虎たちを悩ませていますね。桶狭間の戦いでは織田軍によって討ち取られたことなどにより評価が低くなりがちですが、当時の戦国大名としてはかなり抜きん出た存在でした。そんな今川氏のゆかりの地をご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

日本を代表する名門・今川氏

今川家の家紋・足利二つ引両

今川家の家紋・足利二つ引両

今川氏は室町幕府を開いた足利氏の一族である吉良氏の分家。「足利将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われたように、征夷大将軍の継承権を持つ名門中の名門でした。第9代の氏親は、分国法「今川仮名目録」を定めたほか、検地を行って領内を掌握。幕府に従属する立場だった守護大名を脱し、独立性の高い戦国大名となりました。

その後、当主は氏輝、義元、氏真と続きましたが、このうち義元は駿府・遠江・三河の3カ国を領有して今川氏の黄金時代を築きました。

織田信長も手本にした?今川義元の領国経営

今川治部大輔義元(太平記英勇伝三)

今川治部大輔義元(太平記英勇伝三)

義元は氏親の5男でしたが、兄の氏輝が若くして亡くなったため第11代当主となります。養育係だった禅僧の太原雪斎をブレーンとし、わずか数年で三河を征服。さらに尾張へ迫るなど軍事面で才覚を発揮しました。

外交では隣国の武田氏、北条氏との三国同盟締結に成功。内政では寄親寄子制を導入して国人の寄せ集めだった家臣団の結束を高めるなど、ほかの大名が手本とした先進的な領国経営を行いました。後に織田信長が実行した「楽市楽座」に通じる商業振興策にも取り組んでいたとされます。

拠点を置いた駿府(現在の静岡市)は京都を模した華やかな城下町で、京都を逃れた公家や文化人たちが多く移り住みました。大河ドラマでは今川氏を貴族趣味で文弱というイメージで描きがちですが、公家と交流できたということは当主に格式と教養があったことの証明で、決してマイナスなことではなかったのです。

劇的に今川家の運命が変わった桶狭間の戦い

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)

今川家の運命が大きく変わったのは永禄3(1560)年。氏真に家督を譲った義元は大軍を率いて尾張に侵攻しましたが、尾張の桶狭間(現在の愛知県豊明市)で敗戦を喫し、亡くなってしまいます。享年42歳。
愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地内にある今川義元の墓

愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地内にある今川義元の墓

家臣たちは首のない義元の遺体を駿府に運ぼうとしましたが、腐敗が進んだためやむを得ず道中で埋葬しました。その胴塚は現在、豊川市の大聖寺に残っています。
今川義元胴塚(愛知県豊川市牛久保町)

今川義元胴塚(愛知県豊川市牛久保町)

一説によると、桶狭間に攻め寄せた織田軍は2、3千人といった少数ではなく、1万人近くおり、義元を守っていた今川軍本陣の兵力を上回っていたともいわれます。

近くには、義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊が軍議を開いたといわれる「戦評の松」があります。そこには、命日である旧暦5月19日になると、白馬に乗った義元の亡霊が現れたという伝説もあるそうですよ。

義元亡き後、今川家を支える「ゴッドマザー」寿桂尼

24 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

ユカリノ編集部

ユカリノ編集部

全国各地の「ゆかりの」エピソードをほぼ毎日お届け。知ればもっと行きたくなる、歴史の聖地巡礼へご案内します! 公式

関連する記事 こんな記事も人気です♪

【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

徳川家康を支えた四天王のひとり・本多忠勝。生涯、57回もの戦に出陣しながらも、かすり傷ひとつ追わなかったという伝説を持ち、その強さは、敵味方問わず賞讃と尊敬の的となった猛将です。名槍・蜻蛉切を携え、戦場を駆け巡った忠勝のゆかりの地を、彼の生涯と戦歴とともにご紹介していきたいと思います。
【 井伊直政も活躍! 】徳川家康と武田信玄・勝頼が奪い合った高天神城

【 井伊直政も活躍! 】徳川家康と武田信玄・勝頼が奪い合った高天神城

静岡県掛川市上土方にあった山城・高天神城。一般的に認知の低い城ですが、戦国時代は「高天神を制する者は遠州を制する」と言われるほどの重要拠点でした。このお城をめぐって、長年にわたり死闘を繰り広げてきた徳川家と武田家。両者はいかに戦ったのか。そしてこの戦いをきっかけに異例の出世を遂げた武将とは…!?高天神城争奪戦の内容を追っていきましょう!
【徳川家康最大の悲劇!?】「信康事件」と信康ゆかりの地

【徳川家康最大の悲劇!?】「信康事件」と信康ゆかりの地

天正7年(1579)8月、織田信長の命令のもと、家康が嫡男・信康を切腹させたといわれる「信康事件」。さまざまな説が唱えられる中、最近では、徳川家臣団の分裂を避けるため、家康がやむを得ず下した決断だったともいわれています。今回は、この痛ましい事件の主人公・信康に焦点をあて、短い人生の軌跡を辿りながら、ゆかりの地をご紹介します
【武田軍と織田・徳川軍が激突!】革新的な戦術が勝敗を決めた「長篠の戦い」ゆかりの地

【武田軍と織田・徳川軍が激突!】革新的な戦術が勝敗を決めた「長篠の戦い」ゆかりの地

東の武田、西の織田、東西の有力大名が初めて激突した「長篠の戦い」。鉄砲を使った「三段式装填法」や、武田の騎馬軍団に対抗する「馬防柵」など、信長が考案した革新的な戦術が繰り出されたことでも有名です。その戦場となった長篠・設楽原(愛知県新城市)には、その名残が今も数多く残っています。今回は「合戦ナンバーワン」との呼び声も高い「長篠の戦い」ゆかりの地をご紹介します。
【近江八幡、岡崎、柳川の城下町を整備】武将からも領民からも慕われた田中吉政ゆかりの地

【近江八幡、岡崎、柳川の城下町を整備】武将からも領民からも慕われた田中吉政ゆかりの地

慶長5年(1600)の今日、9月21日は、関ヶ原合戦で敗北した石田三成が捕らえられた日。その三成を捕らえたのが三成と同じ近江出身の田中吉政です。吉政は秀吉に注目されると、秀次の筆頭家老に抜擢。近江八幡や岡崎、柳川の城や城下町を整備し、その遺構は現代にも活かされています。意外と知られていない?吉政の功績とゆかりの地をご紹介します。