大阪に徳川家康の墓が⁉︎ 大坂夏の陣死亡説に迫る歴史ミステリー
2017年6月1日 更新

大阪に徳川家康の墓が⁉︎ 大坂夏の陣死亡説に迫る歴史ミステリー

1616(元和2)年6月1日は、徳川家康の命日にあたります。死因は天ぷらによる食中毒といわれてきましたが、最近の研究では胃ガン説という説が有力になってきました。しかし、すでに1615(慶長20)年、大坂夏の陣で死亡していたという説があるのです! その謎を解くべく大阪府堺市の南宗寺へ、家康最大のミステリーに迫ります。

堀江宏樹堀江宏樹

家康の墓がある!?大阪府堺市の南宗寺

南宗寺 甘露門(国の重要文化財)

南宗寺 甘露門(国の重要文化財)

境内に静かに佇む甘露門(山門)。1647年に造営された。
via 堺市観光ガイド
以前、書籍執筆の際に「大坂夏の陣で家康は死んでいた?」というテーマで一章、書いてほしいと頼まれたことがありました。その時はじめて筆者も知ったのですが、大阪府堺市の南宗寺には、なんと「徳川家康の墓」があるそうです!

……でも単にそれだけなら、日本各地にある「有名人の墓伝説」と変わりがありません。ところが南宗寺には江戸時代、徳川秀忠と家光が約1ヶ月ほどの間に南宗寺をあいついで訪れたというすごい記録があるのでした。

しかも秀忠は将軍の位を息子・家光に譲り、自分の父・家康がしていたように、みずからも「大御所」となるための許可を朝廷から得るため、家光は将軍になるため、親子で上洛しているというきわめて重要な時期の訪問でした。書物から得られる情報は断片的でしかない中、南宗寺まで取材に出かけることにしました。

重要文化財の仏殿含む、史跡の宝庫

1652年建立の仏殿。国指定の重要文化財。

1652年建立の仏殿。国指定の重要文化財。

via 堺観光ガイド
南宗寺は臨済宗大徳寺派のお寺です。創建時から朝廷の庇護を受けていた京都の大徳寺の子院であるため、朝廷とのつながりはわかりますが、徳川家との縁は江戸時代初期までとくになかったお寺だそうです。

創建は1557(弘治3)年で、寺内は重要文化財の仏殿をふくむ史跡の宝庫でした。

拝観料は400円で、ガイドさんが何人もおり、見学者の来訪にあわせて丁寧に解説してくださいます。仏殿の天井には立派な龍が描かれていますが、水の神である龍に火災避けの願いをかけたものでもあるとか。太平洋戦争の際の堺の空襲でもこの仏殿は奇跡的に無事だった……という面白いお話が聞けました。

かなり広い寺の敷地は、江戸時代初期に寺の建物が再建されてから変化してはおらず、秀忠・家光ともに正門から大勢のお供を連れて南宗寺にやってきたというお話を住職さんから聞きました。しかし、残念ながら彼らを寺側がどのようにもてなしたのか、という情報は残念ながら伝わっていないとのことでした。
落ち着いた風情を漂わせる、方丈枯山水庭園。(国の名勝指定)

落ち着いた風情を漂わせる、方丈枯山水庭園。(国の名勝指定)

via 堺市観光ガイド

いよいよ「家康の墓」とご対面!

やはり興味をそそられるのは「家康の墓」です。

南宗寺では現在も江戸時代から伝わる「家康の墓」の石碑を見ることができます。円柱型で1メートルもなく、かなり小さめの印象。やや黒ずんでいるのは、太平洋戦争時に堺が空襲に遭った際、この石碑も現地に存在していた「東照宮」の建物と共に燃えてしまった名残のようです(ちなみに、この東照宮は「日光東照宮」に対し、「堺東照宮」と呼ばれてたそうです)。

石碑に人名や語句は記されておらず、そのかわりといっては何ですが、隣には何か書かれた碑文が地中に埋め込まれています。風化してしまっていて容易には読めませんが、幕末、徳川幕府が「家康の墓が堺の南宗寺にある」という話を聞きつけ、使者として訪れた山岡鉄舟のコメントだそうです。山岡鉄舟は資料と現地調査の結果、「この石碑が徳川家康の墓であることは間違いない」との認定を下し、江戸に戻りました。

家康、大坂夏の陣死亡説に迫る!

家康の墓が、南宗寺にある理由を述べた寺の伝承を、現地でのガイドさんのお話をもとにまとめると次の通り。
大坂夏の陣末期の5月7日、大坂方のあまりの猛攻に衝撃を受けた家康は、天王寺・茶臼山の本陣から命からがら逃げ出さねばならなくなった。しかし、家康はカモフラージュのため、死者を乗せるための駕籠に乗っていたというのに「あれは家康の駕籠だ」と見抜かれてしまい、後藤又兵衛らに追撃された。
後藤の槍で突かれた家康は大けがを負いながらも、引き抜かれる槍の穂先を布でぬぐい、血が付いていないように見せかけた。後藤又兵衛は最初、槍に血が付着していないことを不思議に思ったが、確かな手応えはあったので、駕籠にそれ以上の攻撃は加えなかった(だから家康は首を取られることがなかった)。

家康が堺までわざわざ逃げようとしていたのは、当時、豊臣方より徳川方に味方をしていた堺の町を信頼していたから。

しかし……南宗寺の寺の門の前で駕籠をおろして家康の様子を確かめたところ、すでに事切れてしまっていた。遺骸はいったん南宗寺の軒下に葬られたが、その後、静岡の久能山に移葬され、南宗寺には石碑が残った。

茶臼山から南宗寺までの道のりを実際に検証

そもそも、いくら堺と徳川家の信頼関係が当時、すでにあったとしても、家康の本陣のあった茶臼山から南宗寺までの道のりは約10キロ。晩年の家康は自分で下帯も着けられないほど肥満していたともいわれます(だから逃亡するのに馬ではなく駕籠にのらざるをえなかったという説も)。

しかし、堺と天王寺を結んでいるという阪堺線という市電に乗ってみるとハッキリしましたが、地形はおおむね平坦なんですね。
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堀江宏樹

堀江宏樹

歴史エッセイスト。 2017年の文庫化・新作は 『乙女の美術史 世界編』(角川文庫)7月25日発売 『本当は恐い日本史(仮)』(三笠書房)9月発売予定 『偉人たちのウソ名言(仮)』(PHP)11ー12月発売予定 近著に 『本当は恐い世界史』(三笠書房)、文庫版『乙女の美術史 日本編』(角川書店)、文庫版『愛と夜の日本史スキャンダル』、『三大遊郭』(幻冬舎)、『乙女の真田丸』(主婦と生活社)などがある。 公式

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