【 勝竜寺城、宮津城…】家族運に恵まれなかった!?細川忠興ゆかりの地・前編
2017年11月28日 更新

【 勝竜寺城、宮津城…】家族運に恵まれなかった!?細川忠興ゆかりの地・前編

1563年(永禄6)11月28日は、天下一気が短い大名として名高い細川忠興の誕生日(新暦)。83歳まで生きた忠興は、山城勝竜寺から始まり、丹後宮津、豊前小倉、肥後八代と、時代の流れとともに居住地を変えていきます。武将としての輝かしい戦歴、外様大名としての政治力を持ちながらも、実はその人生は家族運に恵まれず、一家離散の危機ばかり。今回はその人生の前半戦、山城・丹後時代の縁の地をご紹介します。

高桐みつちよ高桐みつちよ

栄光が約束されていたはずの生まれながらの大名

細川忠興

細川忠興

永青文庫蔵
1563年(永禄6)に京の都で生を受け、1646年(正保2)、肥後八代で83歳で亡くなる長生きな忠興。
織田、豊臣、徳川と戦国の世のど真ん中を生きた彼の人生は波乱万丈そのものです。
今回は、順風満帆に見えて実は一家離散の危機にさらされ続けた日々を、『綿孝輯録』の記述を交えながら紹介します。

『綿孝輯録』…別名『細川家譜』。江戸中期に編纂された、細川幽斎、忠興、忠利、光尚の4代にまつわる伝記を集積した細川家の家史。

都生まれ、都育ち。でも不遇な幼少期

父は細川藤孝(のちの幽斎)

父は細川藤孝(のちの幽斎)

天授庵蔵
『綿孝輯録』によれば、忠興が生まれたのは、都の中でも一条にあった「御屋形」とされます。
この時期は13代将軍足利義輝が権力掌握し、政権運営を行っていたころ。父・藤孝は義輝の側近であることから、都に屋敷を賜っていたと思われます。

生まれて早々に将軍の命令によって細川輝経(奥州細川家)の養子となり、細川の名跡を継ぐことになるのですが、これは衰退していた細川家の系譜の延命措置で、実際に輝経の家に入ったわけはなく、藤孝の手元に置かれていました。

ただ、藤孝は和泉半国守護の細川元常の養子となって細川の名跡を継いだ人で、元は和泉細川家の分家の三淵家出身。
忠興曰く、

三淵之家ハ御部屋衆頭二て御座候へとも、御供衆よりは下二て御座候
私ハ大外様と申すものに罷成候
幽斎と別家に罷成候

(三淵の家はお部屋衆頭にてございますが、お供衆よりは下でございます。私は大外様と申すものです。幽斎とは別の家になります)
via 綿孝輯録
と、幕府に系譜を提出した際、室町幕府の階級について語っており、「父とは違う家」という認識があったようです。

名門細川家を継ぎ、将軍家を支える人材として期待されていたのですが、1565年(永禄8)、義輝が松永久秀らに暗殺され、3歳にして人生の転機を迎えます。

二条城を脱出した藤孝が、奈良の興福寺にいた義輝の弟・一乗院覚慶を救出し、その後、15代将軍足利義昭として擁立したのは有名な話。
藤孝は領地であった山城の勝竜寺も三好三人衆に占拠され、しばし流浪の生活を送ることになります。

その時、忠興は、京都に置き去りにされてしまいます。

乳母夫妻に守り脇差ともに預けられ、都の”洛辺田町”というところの裏屋で、宗八という名の平民の子として育てられることになります。
藤孝が迎えに来たのは、織田信長の協力を取り付け義昭を奉じて入京した1569年(永禄12)。
勝竜寺城を取り返し、地盤が固まってからのことでした。

この4年にも及ぶ裏屋生活。”洛辺田町”は現在は地名として残っていないため場所は不明で、『綿孝輯録』にも詳しいことは書かれていません。よほど思い出したくなかったのか、誰にも語らなかったのでしょう。
乳母夫婦は細川家に復帰後は、夫に知行150石、妻に100石を与えられ、転封にも付いていき、『綿孝輯録』が編纂された当時にも子孫が小姓として仕えていることから、感謝をしていたことは間違いありません。

再び、家族と一緒に過ごせるようになった忠興ですが、両親と離れていた間に大きな溝ができてしまったようで、藤孝とはあまりうまくいってなかったようです。
その代わり、松井康之や有吉立行などの家臣とは生涯を通して仲が良く、将来、これが大きな波乱を生むことになります。

花の新婚生活を送った勝竜寺城

勝竜寺城

勝竜寺城

義輝暗殺後、三好三人衆の家臣・岩成友通に奪われていたが、1568年(永禄11)、織田信長が足利義昭を報じて上洛するにあたり、これを破り、織田の傘下へ。その後、藤孝が領主となります。
明智光秀との共同戦線だった丹波・丹後征伐が完了し、丹後宮津に移るまでの13年間、細川家の本城でした。
via 高桐みつちよ撮影
忠興の幼少期の逸話でこんな話が『綿孝輯録』に載っています。
1576年(天正4)、14歳の甲冑お召し始めでの出来事。
椀箱のことき具足櫃二御腰掛られ、彼千秋忍緒に縮さま二、勝て冑の緒を縮よ曳と云て引ける時、具足櫃めりめりと云て抜けれハ、仰向けに御成り、冑は側に落て笑止なる体也、千秋申しけるは目出度く目出度く(後略)

(お椀の箱のような具足櫃に腰かけられ、千秋が冑の緒を「勝って冑の緒を締めよ」と言って引いたとき、具足櫃がメリメリと音を立てて抜けてしまって、(忠興様は)仰向けになってしまって、冑は側に落ちて笑止なる姿に。(それを見て)千秋は「めでたい、めでたい」と言った)
via 綿孝輯録
なんという災難。
ここに登場する千秋は、明智一族の千秋太郎介という人で、名前がめでたいために藤孝がお願いをしたのだそうで、細川家と明智家の親交の深さがよくわかります。

忠興は、宣教師からは「日本一気が短い夫」と言われ、藤孝からも「剛が強い」などと言われていて「怖い人」のイメージがありますが、実は愛嬌のある人で、自分の失敗を笑い話にしていることが多分にあります。
このエピソードも「15歳から17歳まで17カ所も城攻めをしたが、これがなければ勝利を得ることもなかっただろう(十五より十七の歳迄二城十七カ所攻たりしに、勝利を得さりし事もなかりしと後迄の御咄也)」と話していたそうです。

そうして、信長の長男・信忠から一字をもらって忠興と名を改めて元服。
光秀の娘、玉子を正室として迎えます。
 勝竜寺城内の新婚時代の忠興と玉子を描いた像

勝竜寺城内の新婚時代の忠興と玉子を描いた像

長岡京、宮津、中津、熊本と移動していくが、忠興の像はこの像しかない。
ガラシャの名で知られる玉子と忠興。
2人を結びつけたのは織田信長ですが、この結婚、一度破談になりかけています。

『綿孝輯録』によれば、最初に細川家と明智家の縁談が持ち上がったのは1575年(天正2)のこと。
この年に、信長は今後の戦略を見据えて様々な武将の縁組を決めており、その一環で持ち上がった話しでした。
しかし、藤孝は忠興が「剛勇すぎる」と言って断ります。そこを信長が「教戒」するからとごり押しし、婚約が決まったといいます。
信長が丹波・丹後を抑えて西国へ進出するには、細川家と明智家の協力が何が何でも必要と考えていたわけです。
そして元服を迎えて晴れて、1578年(天正6)に2人は結婚します。

この時、どのような行列を組まれたかは詳しく書かれていないのですが、現在、勝竜寺城の一角に同時代の他の史料から推察される玉子の花嫁行列を描いた絵図があります。
この時代の花嫁行列はかなり簡素で、「輿入れ」という言葉の通り、輿のやり取りの儀式だったようです。
現在、長岡京市では11月2週目の日曜日に「ガラシャ祭り」として、この輿入れを再現したパレードを行っています。
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高桐みつちよ

高桐みつちよ

「歴史をポップに楽しみたい!」オタクカルチャーを交えて歴史コンテンツを発信する歴女ユニット「武蔵守歴女会LLP」所属。肥後細川家と石田三成をこよなく愛する歴史ライター時々マイ甲冑武者。関ケ原町を拠点とする甲冑武者団体「関ケ原組」での活動を経て、現在は甲冑劇の脚本演出を行っている。関ケ原合戦祭り『関ケ原合戦絵巻』(2014~)、関ケ原七武将物語(2015~)脚本演出。『真田幸村の系譜(河出書房新書)』執筆協力。 公式

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