龍馬の妻:「おりょう」こと楢崎龍
via ja.wikipedia.org
寺田屋で龍馬の危機を救い、妻となった「おりょう」こと楢崎龍。
龍馬が暗殺された時には、亀山社中の拠点があった下関にいました。後年、「血まみれの龍馬が夢枕に立った」と回想しています。
その後、坂本家に送り届けられるも、親族と折り合いが悪く3ヶ月で出奔してしまいます。
各地を転々とした彼女は、明治7(1874)年から神奈川県の料亭で働きました。翌年には西村松兵衛と再婚し、「西村ツル」と名乗っています。
しかし晩年はアルコールに依存し、「私は龍馬の妻だ」と夫に絡んだりしたそうです。松兵衛ともやがて別居し、明治39(1906)年に66歳で亡くなりました。
龍馬が暗殺された時には、亀山社中の拠点があった下関にいました。後年、「血まみれの龍馬が夢枕に立った」と回想しています。
その後、坂本家に送り届けられるも、親族と折り合いが悪く3ヶ月で出奔してしまいます。
各地を転々とした彼女は、明治7(1874)年から神奈川県の料亭で働きました。翌年には西村松兵衛と再婚し、「西村ツル」と名乗っています。
しかし晩年はアルコールに依存し、「私は龍馬の妻だ」と夫に絡んだりしたそうです。松兵衛ともやがて別居し、明治39(1906)年に66歳で亡くなりました。
おりょう最期の地・横須賀の信楽寺では毎年墓前祭も
人生の後半を過ごした横須賀大津の信楽寺(しんぎょうじ)に、おりょうの墓があります。「阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれており、毎年秋には「おりょうさんまつり」が催されています。
【イベント】「おりょうさんまつり」横須賀で後半生を過ごし、波瀾に富んだ生涯を閉じた坂本龍馬の妻おりょうを偲びます。10月13日(土)13時30分~14時30分、信楽寺で墓前祭、15時~16時30分、大津コミセンで月琴の演奏と語りを実施します。https://t.co/rgvwAXDTQ5 pic.twitter.com/4CQa9v81uN
— 横須賀市 (@yokosuka_city) October 11, 2018
龍馬の婚約者:千葉さな子
龍馬が江戸で学んだ北辰一刀流千葉道場の娘・千葉さな子は、龍馬と婚約していたと言われる女性です。北辰一刀流の達人で、たいそうな美人だったといいます。
さな子は後に、「坂本龍馬とは結納を交わして、桔梗の紋が付いた小袖をもらった」と語っています。龍馬の死後、その小袖を形見として大切にしていたといいます。
結局龍馬とは結ばれることがなかったさな子。晩年は灸治院を開業し、明治29(1896)年に59歳で亡くなりました。
さな子は後に、「坂本龍馬とは結納を交わして、桔梗の紋が付いた小袖をもらった」と語っています。龍馬の死後、その小袖を形見として大切にしていたといいます。
結局龍馬とは結ばれることがなかったさな子。晩年は灸治院を開業し、明治29(1896)年に59歳で亡くなりました。
「坂本龍馬室」と刻まれた千葉さな子の墓
灸治院に甲府市出身の自由民権運動の活動家・小田切謙明が夫人を伴って治療に訪れたのが縁となり、小田切家と親交を深めます。
さな子の死後、無縁仏になることを恐れた謙明の妻・豊次により小田切家の墓がある清運寺に墓が建てられました。墓石の裏には「妻」を表す「坂本龍馬室」と刻まれています。
さな子の死後、無縁仏になることを恐れた謙明の妻・豊次により小田切家の墓がある清運寺に墓が建てられました。墓石の裏には「妻」を表す「坂本龍馬室」と刻まれています。
龍馬初恋の人:平井加尾
龍馬の初恋の相手と言われている平井加尾は、土佐藩士である平井直澄の娘でした。
藩主だった山内容堂の妹が京都に嫁ぐ際には御付役として上洛し、龍馬の脱藩後は一度も会うことはなかったようです。慶応2(1866)年には、同じく土佐藩士で後に警視総監を務める西山志澄と結婚し、明治42(1909)年に亡くなっています。青山霊園には西山家と平井家の墓があり、西山加尾として名が刻まれています。
加尾は後に、「龍馬と再び対面できなかったことは一生涯の心残り」と回想したといいます。
藩主だった山内容堂の妹が京都に嫁ぐ際には御付役として上洛し、龍馬の脱藩後は一度も会うことはなかったようです。慶応2(1866)年には、同じく土佐藩士で後に警視総監を務める西山志澄と結婚し、明治42(1909)年に亡くなっています。青山霊園には西山家と平井家の墓があり、西山加尾として名が刻まれています。
加尾は後に、「龍馬と再び対面できなかったことは一生涯の心残り」と回想したといいます。