没後150年の渋沢平九郎、主家の難に殉じ戊辰戦争に散る
2018年10月4日 更新

没後150年の渋沢平九郎、主家の難に殉じ戊辰戦争に散る

テレビやネットでも度々話題にのぼる「幕末イケメン」、渋沢平九郎をご存知ですか。彼は「日本資本主義の父」と知られる渋沢栄一の養子にあたります。この渋沢平九郎の特別展「渋沢平九郎―幕末維新、二十歳の決断―」が、東京王子の飛鳥山公園にある渋沢史料館で開催されています。見た目がイケメンというだけでなく、その生き様はまさにラスト・サムライ。その渋沢平九郎の生涯をご紹介します。

重久直子重久直子

渋沢平九郎

渋沢平九郎

via 写真提供:渋沢史料館

義父・渋沢栄一と渋沢平九郎

ビジネスマンや起業家に高い人気を誇る渋沢栄一(1840-1931年)。彼は明治時代以降、大蔵省を経て、第一国立銀行、抄紙会社(後の王子製紙株式会社)、東京株式取引所などをはじめとする500もの企業の設立・育成をし、近代日本経済の基礎づくりに尽力したことから「日本資本主義の父」と讃えられています。また600もの社会公共事業や民間外交にも携わりました。
渋沢平九郎生家

渋沢平九郎生家

via 写真提供:渋沢史料館
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の渋沢家・中の家(なかんち)と呼ばれる農民の家に生まれました。渋沢栄一の妻・ちよは、現在の深谷市の農民・尾高家の出身で、渋沢栄一の従妹にあたります。渋沢平九郎(1847-1868年)は、そのちよの弟。つまり渋沢栄一と平九郎は従兄弟同士でもありました。

渋沢家・中の家(なかんち)と尾高家は、農作のほか養蚕や藍玉作りとその販売などを行う家でした。また渋沢栄一は幼い頃から、ちよと平九郎の兄の尾高惇忠から「論語」「四書五経」「日本外史」などを学んでいます。栄一や平九郎の郷里周辺は学問の盛んな土地柄でした。渋沢栄一が後に「日本資本主義の父」と讃えられ「道徳経済合一説」を唱えたのも、こうした下地があってのことでした。
「晩香宗匠発句合」(渋沢平九郎の俳句下案)

「晩香宗匠発句合」(渋沢平九郎の俳句下案)

via 写真提供:渋沢史料館
やがてペリー率いる黒船が来航し幕末の激動期にはいると、青年期を迎えた渋沢栄一は尾高惇忠らと共に尊王攘夷運動に身を投じます。しかし過激な活動を行うことを思いとどまると、京都に上り一橋慶喜に仕えました。
慶応3(1867)年、慶喜の実弟・徳川昭武がパリ万国博覧会参列のために渡欧することになり、渋沢栄一は陸軍附調役として随行し、経理、庶務全般を担当します。
この時、渋沢栄一は、当時19歳の平九郎を養子に迎えます。これは渡航中に不慮の事故などで亡くなるなどの事態に備え相続者を決めたものでした。

渋沢栄一が欧州へと旅立つと、平九郎は幕臣・渋沢栄一の子として江戸での生活をはじめました。しかし翌年の慶応4(1868)年、渋沢栄一渡欧中に、鳥羽伏見の戦いを機に戊辰戦争がはじまり、新政府軍が江戸に迫ります。そして江戸城無血開城が行われます。
留守を預かる平九郎は、渡欧中の渋沢栄一に、そうした状況とあわせ自分の心境について書いた手紙を出しますが、戦乱の渦の中へと巻き込まれてしまうのでした。

ラスト・サムライ 渋沢平九郎の決断

フランスにいる渋沢栄一宛に送った、渋沢平九郎書簡(慶応...

フランスにいる渋沢栄一宛に送った、渋沢平九郎書簡(慶応3年3月8日)

via 写真提供:渋沢史料館
徳川慶喜の汚名を晴らそうと、幕臣・渋沢成一郎(渋沢栄一と平九郎の従兄)や天野八郎らは「彰義隊」を結成しました。しかし徳川慶喜が水戸に退隠すると、渋沢成一郎は「彰義隊」の強硬派と決別、渋沢平九郎や尾高惇忠らと共に「振武軍(しんぶぐん)」を結成、田無(現在の東京都西東京市)に移動します。その右軍頭取を務めたのが渋沢平九郎でした。

慶応4(1868)年5月15日、上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗北すると、「振武軍」はその残党を吸収して一橋領のある埼玉県飯能市に移動しました。これを新政府軍が鎮圧に向かい、同年5月23日に「飯能戦争」勃発。しかし最新装備を備えた新政府軍との戦力差は明らかで「振武軍」は四散し敗走します。

敗走中に仲間とはぐれた渋沢平九郎は、顔振峠(こうぶりとうげ)で立ち寄った茶屋の老婆に「刀を差していると新政府軍に見破られてしまう。預かっておくから後で取りにきなさい」と言われ、刀を預けたといいます。

そして黒山(現在の埼玉県入間郡越生町)まで来た時、平九郎は敗残兵掃討にきていた新政府軍の安芸広島藩・神機隊斥侯兵と出くわしてしまいます。平九郎は掴みかかる兵士達を小刀で斬り付け戦いますが、自身も重症を負ったため、路傍の大石に座り、静かに自刃して果てました。
慶応4(1868)年5月23日、平九郎20歳でした。

平九郎の遺体は首を取られて越生村の法恩寺門前に晒されましたが(諸説あります)、地元の人々によって密かに林中に埋葬されたといわれています。また残った胴体も黒山村の人々によって全洞院で手厚く葬られ、この若者が誰なのかということはわかりませんでしたが「脱走のお勇志様」と呼ばれ、首から上の病気の神様として崇められたといいます。それほどまでに平九郎の死に様は、黒山の人々の胸を打つものだったようです。
渋沢平九郎自刃之跡(越生町黒山)を弔う渋沢栄一 一行(...

渋沢平九郎自刃之跡(越生町黒山)を弔う渋沢栄一 一行(明治45年4月14日)

via 写真提供:渋沢史料館
平九郎の死から半年程たった慶応4(1868)年11月、欧州から帰国した渋沢栄一は平九郎の死を知り深く悲しみます。
その後、渋沢栄一は渡欧中に見聞した欧州の株式制度などを導入し、日本の近代化に大きな足跡を残しますが、平九郎の最後についても八方手を尽くして調べ続けました。

平九郎が落ち延びる時に山間の民家に預けた刀は、明治7(1874)年に渋沢栄一らの手元に戻されました。そして明治6(1873)年から7(1874)年、渋沢栄一は人を派遣しそれぞれ葬られていた平九郎の首と胴体を受け取り、上野寛永寺で仏事を行うと谷中の墓地に改葬します。そして首が埋められたとされる寺には「平九郎埋首の碑」を建て、胴体が埋められていた寺には平九郎墓石を建立しました。

その後も渋沢栄一らは、平九郎の追悼事業を行うなど彼を想い続けました。そして平九郎の死から26年後の明治26(1893)年、元安芸広島藩神機隊隊長・川合鱗三が、平九郎が自刃した際に使用した小刀を大切に保管していた事がわかり、渋沢栄一らの元に戻されたのでした。

明治44(1911)年、帝国劇場で渋沢平九郎を主人公のモデルにした演劇「振武軍」が上演され、広く人々に平九郎のことが知られるようになりました。
青淵文庫

青淵文庫

大正14(1925)年、渋沢栄一傘寿のお祝いと子爵昇爵のお祝いに贈られたものです。「青淵」の名の由来は、故郷の埼玉県深谷市の家の近くにあった淵にちなんだもので、平九郎の兄・尾高惇忠によってつけられました。
via naoko
「幕臣の家にある者は養父に代わって一死をもって主家の難に殉じたものであったとすれば、実に憐れむべきことである」

平九郎を深く愛していた渋沢栄一は、平九郎50年祭を機にまとめた「平九郎追悼書巻」に、このように記しています。

幕末から明治、大正、昭和の初めまで生きた渋沢栄一は、生涯に多くの事業を興しました。そして三井・三菱・住友のように「渋沢財閥」を起こすこともできましたが、「論語」の教えを実践、「私利を追わず公益を図る」との想いを貫き、財閥を残しませんでした。

渋沢栄一が著した「論語と算盤」には、利益を求める経済の中にも道徳が必要である、と記されています。道徳と経済を一致させ、自分達の利益を求めることが、国や公の利益にもつながると記されています。

渋沢史料館で開催中。「渋沢平九郎 ―幕末維新、二十歳の決断―」展

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重久直子

重久直子

歴史ライター&シナリオライター。歴史系ウェブサイトや歴史雑誌に原稿を寄稿したり、映画やドラマに関する活動をしています。幕末や戦国時代、会津や土佐、鹿児島、北陸、出雲、澁谷、神社などに特に興味があります。歴史を知ると自分のことも誇れるようになると思います。そして自分や自分の祖先、そして住んでいる町のことも、もっと好きになると思います。祖先達が見てきた様々な時代を、祖先達から受け継いだ自分の細胞、一つ一つで感じていきたいと思っています。

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