武勇にも内政にも優れた加藤嘉明ゆかりの地と松山城
2017年9月12日 更新

武勇にも内政にも優れた加藤嘉明ゆかりの地と松山城

加藤なら清正、というイメージが強いかと思いますが、忘れてはいけないのが加藤嘉明です。豊臣秀吉子飼いの武将として「賤ヶ岳の七本槍」に数えられ、また淡路水軍を率いて海戦でも活躍するなど、その武勇はかなりのものでした。寛永8年(1631)9月12日に亡くなった加藤嘉明の彼の人生と、松山城をはじめとするゆかりの地をご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

加藤嘉明ってどんな武将?

加藤嘉明像

加藤嘉明像

加藤嘉明は、永禄6年(1563)年に三河(愛知県)で生まれました。父は松平時代の家康に仕えていましたが、一向一揆で背き、その後流浪の身となったと言います。嘉明は行商を手伝っている際に見込まれ、羽柴秀吉に推挙されて仕えるようになりました。羽柴秀勝の小姓にもなっています。

秀吉の元で、小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵など数々の戦いに参戦し、そのほとんどでめざましい武功を挙げました。また九州征伐からは淡路水軍を率いて戦うなど、陸だけでなく海戦でも見事な活躍を見せるのです。
加藤左馬之介嘉明(『太平記英勇伝』より)

加藤左馬之介嘉明(『太平記英勇伝』より)

朝鮮出兵では、淡路水軍を率いて日本水軍の副将格として各地で力戦した。
via 東京都立図書館蔵

関ヶ原は東軍に属し、徳川幕府でも存在を示す

しかし、武断派であった彼は秀吉の死後、石田三成ら文治派と対立。関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し、ここでも戦功を挙げて、伊予(愛媛県)20万石の領地を得ます。この時、松山城の築城が始まりました。

そして江戸幕府内でも存在感を示すまでになり、家光の鎧着初(よろいきぞめ)の介添役や後水尾天皇の二条城行幸の警護役、福島正則改易に伴う広島城の接収役など、重要な役割を務めるようになりました。

そして寛永4年(1627)、松山城の完成を見ることなく、蒲生氏と入れ替わりで会津へ加増転封され、43万5500石の領地を得たのでした。それから4年後、病を発し、寛永8年(1631)9月12日に江戸で死去しました。享年69。麻布の善福寺で荼毘に付され、後に遺骨は京都の東本願寺大谷祖廟に葬られました。

「賤ヶ岳の七本槍」として活躍!

『賤ヶ嶽大合戦の図』

『賤ヶ嶽大合戦の図』

via https://ja.wikipedia.org/wiki/
嘉明の立身出世のきっかけは、天正11年(1583)に起きた、羽柴秀吉と柴田勝家が衝突した賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げたことでした。

ここで活躍した秀吉子飼いの武将は、「賤ヶ岳の七本槍」とうたわれたました。面々は、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、そして加藤嘉明でした。
秀吉による子飼いの武将の力の宣伝という意味合いもあって「七本槍」とされたそうですよ。
賤ヶ岳

賤ヶ岳

via https://ja.wikipedia.org/wiki/

加藤嘉明ゆかりの城・松山城(愛媛県松山市)

松山城

松山城

関ヶ原の戦いの後に伊予20万石に加増された嘉明は、慶長7年(1602)から松山城の築城に着手しました。翌年には地名を「松山」と改め、現在の松山の名付け親となっています。

ここで嘉明は内政に尽力し、城下町の整備や治水工事などを積極的に行いました。これが現在の松山の基盤となり、現在も地元で愛される理由のひとつとなっています。

嘉明自身は築城途中の寛永4年(1627)に会津へ移封となり、入れ替わりでやってきた蒲生忠知によって、二之丸などが完成しました。

現存12天守のうち、最も標高の高い天守

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