【 井伊直政も活躍! 】徳川家康と武田信玄・勝頼が奪い合った高天神城
2017年11月26日 更新

【 井伊直政も活躍! 】徳川家康と武田信玄・勝頼が奪い合った高天神城

静岡県掛川市上土方にあった山城・高天神城。一般的に認知の低い城ですが、戦国時代は「高天神を制する者は遠州を制する」と言われるほどの重要拠点でした。このお城をめぐって、長年にわたり死闘を繰り広げてきた徳川家と武田家。両者はいかに戦ったのか。そしてこの戦いをきっかけに異例の出世を遂げた武将とは…!?高天神城争奪戦の内容を追っていきましょう!

みのうち社みのうち社

高天神城とは

高天神城 搦手門跡

高天神城 搦手門跡

JR掛川駅からバス(掛川大東浜岡線)で「浜岡営業所」行、または「大東支所」行で、「土方」下車、徒歩約15分。
JR掛川駅からタクシーで約20分。
東名掛川ICから約15分。駐車場あり。
via 写真提供:いなもとかおり
高天神城は静岡県掛川市上土方の鶴翁山の山頂に築かれた山城です。
掛川から8kmほど南に位置しており、山の尾根の先端にあります。
東海道に近く、街道を制圧できる好立地であったため、徳川家康と武田信玄・勝頼父子が争奪戦を繰り広げました。

山自体は小ぶりなので、軽い山歩き程度でいけそうな雰囲気がありますが、整備された搦手からの道は急こう配になってキツい山道が続きます。動きやすい格好がベストです。

高天神城は一説によると今川氏親(今川義元の父)の重臣・福島正成が築城したといわれています。
福島正成は大永元年(1521)に討死し、その子は北条氏二代目氏綱の娘婿として迎えられ、玉縄城主・北条綱成になります(「黄八幡」の旗で有名ですね)。
その後、今川氏配下の小笠原氏が高天神城に入り、永禄11年(1568)に今川氏真が駿府を追われると、高天神城主小笠原氏興は家康に属し、氏興の子・信興(氏助)が高天神城代となります。

こちらは掛川城の復元天守

こちらは掛川城の復元天守

via 写真提供:みのうち社
高天神城から北に8kmの位置にあるお城。今川氏真は駿府城から掛川城に逃げ込み抵抗を試みますが、徳川家康に包囲され、半年後に降伏します。

高天神城想像図

高天神城想像図

via 写真提供:みのうち社
高天神城は二つの峰からなり、東の峯に本丸があり、西に高天神社等を中心とした曲輪があります。
西と東を分断する大堀切

西と東を分断する大堀切

via 写真提供:いなもとかおり
東と西の尾根は中央の大堀切で分断されており、片方が落ちても片方が機能するようにできていたと言われています。

東の曲輪は渓谷に囲まれており、山そのものが天然の要害になっていますが、西の曲輪は東よりもゆるやかで幅広な尾根が続いているため、横堀や堀切などのギミックで随所を守っているのが特徴です。東峰から徐々に西峰の尾根筋に城域を拡張していったといわれています。
本丸土塁跡

本丸土塁跡

via 写真提供:いなもとかおり
かな井戸

かな井戸

via 写真提供:日本の城 写真集
西の井戸曲輪にある「かな井戸」。搦手脇には武田軍が雨乞いの儀式をするために造った三日月井戸もあり、いかに水が重要であったかが偲ばれます。
高天神社

高天神社

via 写真提供:日本の城 写真集
井戸曲輪から続く石段の上にある高天神社。高天神城の名前はこの神社に由来しているのだとか。
現在西の丸にありますが、かつては本丸に祀られていました。現在の本丸には元天神社があります。
本丸にある元天神社

本丸にある元天神社

via 写真提供:いなもとかおり
32 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

みのうち社

みのうち社

歴史好きなイラストレーター&ライター、デザイナー、編集者の3人組。 武将の城や偉人の史跡、神社仏閣、美術など、身近にあるものでも最大限に楽しめる「歴史エコ」な情報を発信していきたいと思います。 今後は、各種イベントや本の企画など、歴史にまつわる仕事をしていく予定です。よろしくお願いします! 公式

関連する記事 こんな記事も人気です♪

【 初陣から元服まで 】家康の信頼を獲得していった井伊直政の活躍

【 初陣から元服まで 】家康の信頼を獲得していった井伊直政の活躍

井伊万千代(直政)の初陣は、天正4年(1576)2月7日、武田勝頼と交戦した遠江芝原の戦いであると言われています。それから天正10年(1582)、22歳で元服し「直政」と名乗るようになるまで、直政自身にも、主君である家康にも様々な事件が起こります。直政がどのようにして家康の信頼を獲得していったのか。今回は戦国時代の流れを追いながら、直政が初陣してから元服するまでの活躍をご紹介します。
【武田軍と織田・徳川軍が激突!】革新的な戦術が勝敗を決めた「長篠の戦い」ゆかりの地

【武田軍と織田・徳川軍が激突!】革新的な戦術が勝敗を決めた「長篠の戦い」ゆかりの地

東の武田、西の織田、東西の有力大名が初めて激突した「長篠の戦い」。鉄砲を使った「三段式装填法」や、武田の騎馬軍団に対抗する「馬防柵」など、信長が考案した革新的な戦術が繰り出されたことでも有名です。その戦場となった長篠・設楽原(愛知県新城市)には、その名残が今も数多く残っています。今回は「合戦ナンバーワン」との呼び声も高い「長篠の戦い」ゆかりの地をご紹介します。
【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

【徳川家康を支え、戦い続けた】戦国一の猛将・本多忠勝ゆかりの地

徳川家康を支えた四天王のひとり・本多忠勝。生涯、57回もの戦に出陣しながらも、かすり傷ひとつ追わなかったという伝説を持ち、その強さは、敵味方問わず賞讃と尊敬の的となった猛将です。名槍・蜻蛉切を携え、戦場を駆け巡った忠勝のゆかりの地を、彼の生涯と戦歴とともにご紹介していきたいと思います。
【築山殿、於大の方、千姫】波乱万丈!徳川家の女性たちゆかりの地

【築山殿、於大の方、千姫】波乱万丈!徳川家の女性たちゆかりの地

一族の繁栄と生き残りをかけた戦国時代。武将だけでなく、彼らを取り巻く女性たちも、ときに翻弄されながら懸命に生きた時代でもありました。今回は徳川家康を取り巻く女性たちに注目。家康の正妻でありながら、非業の最期を遂げた築山殿。離縁され、別の家に嫁いでからも息子思いだった母・於大の方。7歳にして豊臣秀頼に嫁ぎ、波乱の人生を送った家康の孫・千姫。そんな3人の女性たちの生涯とゆかりの地をご紹介します。
【徳川家康最大の悲劇!?】「信康事件」と信康ゆかりの地

【徳川家康最大の悲劇!?】「信康事件」と信康ゆかりの地

天正7年(1579)8月、織田信長の命令のもと、家康が嫡男・信康を切腹させたといわれる「信康事件」。さまざまな説が唱えられる中、最近では、徳川家臣団の分裂を避けるため、家康がやむを得ず下した決断だったともいわれています。今回は、この痛ましい事件の主人公・信康に焦点をあて、短い人生の軌跡を辿りながら、ゆかりの地をご紹介します