【関ヶ原合戦で活躍】黒田長政ゆかりの地と福岡市博物館をめぐる
2017年8月29日 更新

【関ヶ原合戦で活躍】黒田長政ゆかりの地と福岡市博物館をめぐる

名軍師・黒田官兵衛の嫡男であり、父と共に秀吉に仕え、数々の武功をあげた黒田長政。関ヶ原合戦では東軍として活躍し、家康から認められ、福岡藩初代藩主になります。1623年(元和9)8月29日の長政の命日にちなみ、今回は長政の福岡ゆかりの地と、黒田家の家宝を所蔵する福岡市博物館を紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

福岡藩初代藩主・黒田長政

重要文化財 黒田長政像

重要文化財 黒田長政像

via 福岡市博物館
筑前福岡藩初代藩主・黒田長政は、1568年(永禄11)12月3日、黒田官兵衛の嫡男として播磨国姫路城に生まれました。幼名は松寿丸。わずか9歳で織田信長の人質となり、羽柴(豊臣)秀吉に預けられ、近江国長浜城で過ごします。

1578年(天正6)、謀反人・荒木村重の説得に行った官兵衛が長く幽閉されてしまい、裏切りを疑った信長は松寿丸を殺すよう秀吉に命じます。困った秀吉を助けたのは、当時の軍師・竹中半兵衛でした。官兵衛が信長を裏切る訳がないと確信していた半兵衛は、ひそかに松寿丸を自分の領地である美濃に移動させ、別の首を差し出したそうです。

辛くも一命をとりとめた長政は、有岡城の陥落後、救出された父と共に姫路に帰郷。1582年(天正10)6月、本能寺の変で信長が亡くなると、父と共に秀吉に仕えます。秀吉の備中高松城攻めに従い、初陣となる冠山城の戦いで毛利氏と戦います。

その後も「賤ヶ岳の戦い」で功をあげ、「小牧・長久手の戦い」では大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、長宗我部水軍を退けます。また、九州征伐、朝鮮出兵では「文禄・慶長の役」に参戦、数多くの戦功を挙げるのです。

秀吉が亡くなった後は、石田三成らと対立。徳川家康と通じるようになり、「関ヶ原の戦い」では東軍武将として活躍します。長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家らの寝返りを促すなど、官兵衛さながらの謀略活動も行い、東軍を勝利に導きます。それらの功により、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に52万3千石を与えられ、名島城に入城、長政は福岡藩の初代藩主となります。

長政が最初に入城した「名島城」

名島城跡

名島城跡

via 写真提供:(公社)福岡県観光連盟
名島城はもともと、立花鑑載が天文年間に立花城の出城として築いたとされています。その後、1587年(天正15)に、九州平定を終えた秀吉から筑前国を与えられた小早川隆景・秀秋が改修し、居城としました。

東をのぞく三方を海に囲まれ、北に本丸、その南に二の丸、三の丸を配し、海水を引き込んだ堀割と空堀で周囲を防御していました。

関ヶ原合戦後、長政は家康よりこの名島城を与えられます。

1607年(慶長12)、福岡城の完成、移転とともに廃城となりました。この時石垣や門などを福岡城に輸送したといい、遺構として名島門が福岡城に、唐門が黒田家の菩提寺である崇福寺に残っています。

長政の拠点となった「福岡城」

福岡城跡 多聞櫓

福岡城跡 多聞櫓

via 写真提供:福岡市
名島城は手狭で簡素な城であったこと、太守としては不便な土地であったことから、長政は父と共に新たな城を築城します。場所は、城下町の発展を考え、古くから港町として栄えていた博多に隣接する福崎を選びました。

この時、黒田家の祖ともいうべき黒田高政が備前(岡山県)の福岡から家をおこしていった故事にちなみ、福崎を福岡とし、福岡城となったのです。

当時の福岡城内には10を超える大小の門、47基の櫓が並び、築城には7年の歳月を要したそうです。築城名人である加藤清正は福岡城を高く評価し、「自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城なら30~40日は落ちない」と賞賛したと伝えられています。

また長政は、福岡城にふだん使わない部屋をひとつ用意させていたと言います。その部屋では月に3日、朝から夕方まで過ごし、家中の者なら誰でも直接その部屋を訪ね、藩主に自由に意見を言える機会を設けていたそうです。

1623年(元和9)8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京しましたが、長政はまもなく発病。宿にしていた京都の知恩寺で死去します。享年56歳。黒田家は長男・黒田忠之が継ぎました。
福岡城跡 大手門

福岡城跡 大手門

via 写真提供:福岡市
福岡城跡 潮見櫓

福岡城跡 潮見櫓

via 写真提供:福岡市

黒田家の菩提寺「崇福寺」

崇福寺 山門

崇福寺 山門

山門は福岡城の表御門を移築したもの。
via 写真提供:福岡市
黒田家の菩提寺である福崇寺。当初は太宰府にありましたが、長政が藩主になってから、現在の場所に移転しました。境内北側に官兵衛、長政ら藩主代々の墓所があります。もともとは広大な場所で、伽藍は海岸まで続いていましたが、福岡大空襲により消失してしまいました。
崇福寺 黒田家墓所

崇福寺 黒田家墓所

境内には、官兵衛・長政など歴代藩主などを中心に祀る黒田家墓所がある。
via 写真提供:(公社)福岡県観光連盟
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