「日本男色史巡り 第9回:大内義隆」男色が原因で滅亡した!?戦国大名の生涯
2018年3月30日 更新

「日本男色史巡り 第9回:大内義隆」男色が原因で滅亡した!?戦国大名の生涯

日本の男色史を、ゆかりの品や場所とともにご紹介する連載『日本男色史巡り』。第9回は、中国・朝鮮にまで名がとどろき、その全盛期は日本で最強最大の戦国大名だった「大内義隆」。6カ国の守護をつとめ、毛利元就も恐れはばかった男が、最も愛した少年とは!?

黒澤はゆま黒澤はゆま

実は日本最強の大名!?大内義隆

大内義隆

大内義隆

龍福寺蔵
本当は偉大な人なのに、最後ひどい負け方をしちゃったばかりに、功績がまったく忘れ去られ、やられキャラの印象しか残ってしまっていないという、損な人がいるものです。
 
たとえば、海道一の弓取りとうたわれ、生きている間はあの武田信玄も恐れはばかって、その領土に指一本触れることが出来なかったのに、話題になるのは「桶狭間で信長に負けた」ということばかりの今川義元。また、武田信玄、上杉謙信、佐竹義重といった化け物相手に一歩も引かず、北条氏最大の版図を築きながら、「おごり高ぶって上洛要請に従わず秀吉の遠征を招いた」ことばっかり指摘される北条氏政などなど。皆、力の限りを尽くして己の生をまっとうしようとしただけで、決して誰かの踏み台になるために生まれてきたわけではないのに……。
 
今回、ご紹介する大内義隆も、そういう「損な人」のうちに入るかもしれません。

滅亡に追い込まれた原因が男色だった!?

「大寧寺の変」と呼ばれる、家臣の謀反によって敗死し、しかも、それが後に中国の覇者となる毛利家飛躍のきっかけとなったために、大英雄、毛利元就物語のプロローグ扱いされることも多い大内義隆ですが、少なくともその全盛期は、軍事・経済両面において、日本最大最強の大名でした。

周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前、6カ国の守護をつとめ、その版図は現在の都道府県の区分でいうと、山口県、広島県、島根県、福岡県、大分県にまでおよんでいます。

応仁の乱以降、衰えて行く一方だった文化・芸術の庇護者でもあり、小京都と称された彼の首邑「山口」には、荒廃した京から落ち延びた多くの貴族、文人、画家が、平和に暮らしていました。また、中国・朝鮮との貿易が公式に認められた、唯一の大名だったため、山口には明人、朝鮮人、そして、この頃、日本の近海に姿をあらわしはじめた西洋人などの姿もあったといいます。

日本のみならず、異国にまでとどろく義隆の英名に、毛利元就、大友宗麟、龍造寺隆信といった、狡猾きわまりない梟雄たちも、彼の存命中は下風に立つほかありませんでした。

そんな義隆が先に述べた「大寧寺の変」であえなく滅亡に追い込まれてしまった理由の一つが、実は男色だったのです。
大内氏館(山口県山口市)の復元された西門

大内氏館(山口県山口市)の復元された西門

大内氏の居館。京都を模した山口にふさわしいよう、城ではなく館としてつくられた。そのため詰の城として背後に高嶺城がある。

絶世の美少年、陶五郎

百済の聖明王の第3王子、琳聖太子の子孫を自称する、大内氏は遅くとも12世紀には周防国に土着していました。本姓は多々良。「たたら製鉄」のたたらですね。百済王の後裔というのは出自を飾るための与太話にしても、その始祖は大陸から渡ってきた、製鉄業者だったのかもしれません。
 
そのせいか、彼らの事績を辿ると、何かと中国・朝鮮と縁のある話が多かったりします。

朝鮮国王から倭寇の取り締まりを頼まれて「領土をくれたらやってやるよ」と言い垂れたとか、細川氏とどちらが正式な勘合をもっているかで争って「寧波の乱」を起こしたとか……あんまりろくな話じゃないですね。
 
ちなみに寧波の乱のときは、偽の勘合符を賄賂で中国側に認めさせるというズルをした細川氏とそれを認めた中国側に激怒。

街の武器庫から武器を奪ったあと、細川方の船を焼き払い、さらに沿道の村々を焼き払いながら、逃げ出した使者を紹興まで、追いかけています。そして、使者ともののついでにその街の長官まで捕らえると、船を奪って海上逃げ去りました。
 
もちろん、明側も黙っておらず、長官を取り戻そうと追いかけてくるのですが返り討ちにして、指揮官を討ち取ってしまいました。「マッドマックス」かよというエピソードですが、文弱のイメージの強い大内氏ももともとは大変剽悍な氏族だったのですね。

父・義興の代から重鎮だった陶氏

それはさておき、大内氏は平安末期以来、傍流の男子の種を周防各地にばらまき、嫡流を支える支族を盛んに作りました。その一つが、吉敷郡陶村を本貫とする陶氏です。歴代、大内氏嫡流に勝るとも劣らぬ、勇猛果敢な人物を輩出し、応永8年(1401)の陶盛政以来、代々、周防国守護代を任されています。

そして、義隆が大内氏当主の座についたとき、陶氏当主の座にあったのは興房という人物でした。彼は義隆の父、義興の代からすでに大内家の重鎮だったので、まだ若い義隆からは大変頼りにされました。興房もその期待に応えて、主に九州方面の戦いで大活躍。九州北部の大名、少弐氏を打ち破っています。

さて、この興房の息子に、五郎というものがいました。
五郎は陶氏の血を継ぐ男の子らしく、勝気で元気いっぱいな一方、におい立つような美少年でした。

布教に山口にやってきたザビエルに、男色好きを叱られたこともある、義隆は夢中になってしまったようです。

年の差14歳のカップル誕生

陶氏歴代の居城だった若山城跡(山口県周防市)

陶氏歴代の居城だった若山城跡(山口県周防市)

五郎の住む富田の若山城までは、山口から徒歩で丸一日かかる距離なので、ちょうど中間の「松ヶ崎の寺」があいびきの舞台になりました。残念ながら、この「松ヶ崎の寺」がどの寺か特定できないのですが、松ヶ崎には周防の国分寺があるので、ひょっとしたらここが義隆と五郎の愛の巣だったのかもしれません。

いずれにせよ、年の差14歳のカップルは、主従の枠を超えて愛しあいました。

ある夏の夜のことです。

昼間は腕白な五郎も、夜になると、別人のようなはにかみと優しさを見せ、義隆を喜ばせました。互いに愛と情けを尽くし、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。

「こんな時間が永遠に続いてくれれば」

しかし、まだ幼い五郎は、愛撫と語らいに疲れて、寝入ってしまいました。

やがて、情け知らずの一番鶏が朝を告げます。せめて、別れの言葉だけでもと思って、義隆は五郎を起こそうとしましたが、豊かな頬にえくぼの浮かんだ何とも健やかで愛らしい寝顔。子供の夢を邪魔するのも忍びなく、義隆はそっと手枕を外して帰りました。翌日、五郎に和歌を送りましたが、それは次のようなものでした。

「もぬけなり とせめて残ふば空蝉の 世の習ひ共思ひなすべし」

以上の話は、「大内義隆記」の記述をもとにしていますが、「大内義隆記」は義隆没落後すぐに、その菩提寺、竜福寺の僧侶が書いたものなので、ほぼ史実と言ってよいかと思います。

主君と、彼が片腕と頼む重臣の息子との恋といえば、本連載の第1回で紹介した伊達政宗と片倉重長のカップルのことを思い出しますね。

しかし、義隆と五郎の恋は、政宗と重長のそれとはまったく違う結末を迎えてしまうのです。
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黒澤はゆま

黒澤はゆま

宮崎生まれ。大阪在住。2013年に歴史小説『劉邦の宦官』でデビュー。他著作に真田昌幸の少年時代を描いた『九度山秘録』、世界史・日本史上の少年愛を紹介した『なぜ闘う男は少年が好きなのか』がある。愛するものはお酒と路地の猫。 公式

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