【一身二生の男】伊能忠敬のすごさを知りたければ佐原へ行こう!
2017年6月9日 更新

【一身二生の男】伊能忠敬のすごさを知りたければ佐原へ行こう!

地球一周分を歩いた男・伊能忠敬。2018年は没後200年にあたり、今ふたたびその偉業と生き方が注目されています。驚くべき精度の日本地図を作り上げ「人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない」という言葉を残しました。言葉通り商人と測量家として余生のない人生を生きた伊能忠敬。彼が住んでいたのが水郷の町・佐原(千葉県香取市)です。伊能忠敬の日本地図作成に懸けた生涯と佐原のゆかりの地をご案内いたします。

こまきこまき

五十にして天命を知る!!家業再興から測量家へ

伊能忠敬銅像(香取市佐原公園)

伊能忠敬銅像(香取市佐原公園)

「一身二生(いっしんにしょう)」とは「一生に2つの人生を生きる」という意味で、福沢諭吉が自分自身について「文明論之概略」の中で述べた「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」を出典とする言葉。

伊能忠敬を描いた小説「四千万歩の男」(井上ひさし著、講談社)の第1章タイトル「一身にして二生を経る」が、まさに伊能忠敬の生涯をあらわしているということで忠敬を語る際によく用いられている言葉です。傾きかけていた伊能家を立て直し終えた忠敬が、息子に家督を譲り天文学者・高橋至時に師事したのは50歳の時でした。
伊能忠敬をモチーフに1995年に発行された切手

伊能忠敬をモチーフに1995年に発行された切手

伊能忠敬は延享2(1745)年、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町)に生まれ、17歳の時に佐原の伊能家へ婿養子に入りました。忠敬が婿に入った頃の伊能家は、家業の醸造業が衰え経営困難な状況でした。婿に入った忠敬は商才を発揮し見事に家業を再興させます。

やがて忠敬は村内の揉め事を解決したりするうちに村民の信を得るようになり、天明元(1781)年に36歳で名主となりました。その翌年、名主よりさらに上の村方後見となった忠敬は天明の大飢饉の際には私財によって村民を困苦から救うなど村のために力を尽くしたのです。

隠居後、50歳を過ぎてから暦学を学ぶ

 (4328)

忠敬の隠居願いが受理されたのは寛政6(1794)年のことでした。50歳になっていた忠敬は家督を長男・景敬へ譲り、一路江戸へと向かいました。それまで独学で勉強していた暦学を本格的に学びたいと考えていたのです。江戸に着いた忠敬は天文学者の高橋至時に弟子入りします。

高橋至時は忠敬の19歳年下でしたが、師として敬い教えを受けました。隠居を前にして長男・景敬に残した家訓の中には「身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るべし」という文言があります。息子へ託した家訓を自分自身も実践していたのですね。
大日本沿海輿地全図

大日本沿海輿地全図

「伊能図」とも。文政4(1821)完成。
新しい暦を作っていた高橋至時と忠敬らは、精度の高い暦を作るには地球の外周を知らねばならないと考えました。そのためにはできるだけ距離の離れた2つの地点の観測が必要です。師の至時は地図を作ると幕府へ申告し蝦夷地へ行く許しを得ます。当時、蝦夷地へ行くには幕府の許可が必要だったのです。

測量隊は全部で9名。リーダーは忠敬です。寛政12(1800)年、56歳の忠敬の測量の旅が始まりました。一定の歩幅で歩き、数人分の平均をとりながら測量の旅は続きます。蝦夷地までを測量した一行が江戸へ帰ったのは180日後でした。現在のお金にすると1千万円を越える旅の費用は、なんと忠敬の自腹だったそうです!
蝦夷地から戻った翌年、今度は伊豆から太平洋側の測量へ旅立ちます。この旅は230日間かかりました。続いて東北の日本海側と東海・北陸の測量を行い東日本の地図を完成させました。享和3(1803)年のことです。

そして文化2(1805)年、西日本の測量に取りかかります。測量は幕命となり、はじめ9名だった測量隊はこの頃には100名近くになっていました。忠敬はこの時61歳です。途中、忠敬はマラリアに罹患したりして苦労し、歯はほとんど抜け落ちてしまっていたといいます。屋久島の測量の前には息子へ遺言めいた書状を送ったりもしました。
『大日本沿海輿地全図』第90図 武蔵・下総・相模

『大日本沿海輿地全図』第90図 武蔵・下総・相模

via (国立国会図書館デジタルコレクションより)
測量隊が五島列島から江戸へ帰ったのは文化11(1814)年。忠敬は70歳になっていました。翌年、江戸府内地図のための測量を行い、これが忠敬の最後の仕事となります。忠敬は約17年間の測量の旅の間、毎日日記を記していました。その記録から忠敬が測量で歩いた距離が4万kmに及ぶことがわかります。地球の外周とほぼ同じ距離です。

測量で得たデータから作られた地図を修正しつなぎ合わせる作業が行われていた文政元(1818)年に忠敬は73歳でこの世を去りました。完成した日本地図は驚異的な精度のものでした。

忠敬ゆかりの地、美しき水の郷・佐原をめぐる

小野川と佐原の町並み

小野川と佐原の町並み

via 撮影:こまき
43 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

こまき

こまき

歴史ライター。ワイルドサイドを歩くことを信条とする。『時の娘』をはじめとした歴史ミステリーに目がなく、読む→書く→読む→書くの無限ループのうちに日々を過ごす安楽椅子ライター。昼夜を分かたずラジオを流しているラジオ狂でもある。『姓氏家系歴史伝説大事典』『江戸東京魔界紀行』(共に勉誠出版)『社寺縁起伝説辞典』『横溝正史研究』(共に戎光祥出版)等々へ記事執筆多数。

関連する記事 こんな記事も人気です♪

来年の大河ドラマ主人公、周年記念のあの人も!2018年建立された銅像たち

来年の大河ドラマ主人公、周年記念のあの人も!2018年建立された銅像たち

2018年もゆかりの地に続々と建てられた偉人たちの銅像。記念や節目に新しく造られることで、改めて功績を見直すきっかけにもなりますよね。そこで今回は、2018年に新設された銅像とともに、今年がどんな年だったのかを振り返ってみましょう!
清少納言も徳川将軍も!いつの時代も夏はやっぱりかき氷

清少納言も徳川将軍も!いつの時代も夏はやっぱりかき氷

7月25日は「夏氷」という語呂合わせから「かき氷の日」とされています。暑い夏を乗り切るため、涼を求めて食べるかき氷。甘いシロップがかかった冷たい氷を一口食べるだけで涼しさを感じますね。平安時代から食べられていたというその歴史や、当時の食べ方などをご紹介します。
2018年は没後200年!伊能忠敬の記念事業が千葉県香取市で開催

2018年は没後200年!伊能忠敬の記念事業が千葉県香取市で開催

17年かけて全国を測量し、正確な日本地図を完成させた伊能忠敬。没後200年になる2018年、出身地である千葉県香取市佐原では5月20日(日)に記念式典を開催、新たに銅像が建されるなど、様々なイベントが予定されています。忠敬の偉業を見つめ直す貴重な機会、ぜひ参加してみませんか?
【2018年に周年を迎える平清盛、伊能忠敬…】年末年始の旅行におすすめ!ゆかりの地めぐり

【2018年に周年を迎える平清盛、伊能忠敬…】年末年始の旅行におすすめ!ゆかりの地めぐり

のんびり過ごす年末年始もいいですが、せっかくのお休みですし、どこかに出かけてみませんか?今回は、年末年始でも間に合う!穴場的な偉人ゆかりの地や、おすすめスポットを紹介します。2018年に周年を迎える平清盛や伊能忠敬、特別番組で話題の「風雲児たち」ゆかりの地もこの時期ならねらい目ですよ。
三浦按針と徳川家康を大河ドラマに!ゆかりの地・横須賀市に聞いた誘致活動

三浦按針と徳川家康を大河ドラマに!ゆかりの地・横須賀市に聞いた誘致活動

大河ドラマ誘致戦国時代といわれる昨今。その経済効果は数十億円ともいわれ、各自治体は地元の偉人を大河ドラマの主役にとPRしています。その中から今回は、ウィリアム・アダムズこと三浦按針と徳川家康を主役にした大河ドラマ化に向け活動している神奈川県横須賀市をピックアップ。家康に重用された英国人・按針とはどのような人物だったのか?初の外国人大河ドラマの主役になるかもしれない、そのドラマチックな生涯を、ゆかりの地の声とももにご紹介します。
温泉を愛した武将たちの記録も!国立公文書館「温泉~江戸の湯めぐり~」展

温泉を愛した武将たちの記録も!国立公文書館「温泉~江戸の湯めぐり~」展

日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会や紀行文などを通して、温泉地の情報が広く流布しました。多くの人々が訪れ、温泉は次第に湯治場としてだけではなく、行楽地としても賑わうようになります。国立公文書館では平成31年1月26日(土)〜3月9日(土)の期間、江戸時代の資料を中心に人々と温泉の関わりを紹介する企画展「温泉~江戸の湯めぐり~」を開催。その見どころをご紹介します。
新設!「高輪ゲートウェイ駅」周辺の歴史と背景を探る【古地図と巡る江戸街並み探訪:第6回】

新設!「高輪ゲートウェイ駅」周辺の歴史と背景を探る【古地図と巡る江戸街並み探訪:第6回】

JR山手線の田町駅から品川駅の間に新設される駅が「高輪ゲートウェイ駅」とされることが発表され、色々と話題になっています。公募では下位にあった候補でしたが、「高輪」「芝浦」「芝浜」と言った歴史的名称を抑えて、一躍の採用。「ゲートウェイ」とは「玄関口」の意味。今回は、その背景や周辺の歴史を、古地図と今後の都市構想から探ってみます。
【将軍の御落胤】江戸初期の三名君のひとり・保科正之とゆかりの地

【将軍の御落胤】江戸初期の三名君のひとり・保科正之とゆかりの地

徳川秀忠の四男ながらもその存在を隠された保科正之は、典型的な「御落胤」でした。のちに保科家を継いだ彼は、家臣として将軍家を支え続け、後の会津松平家の祖となったのです。今も名君として伝わる保科正之の数奇な人生をゆかりの地とともにご紹介しましょう。
徳川幕府ゆかりの縁切寺・満徳寺、その驚くべき縁切り方法とは!?

徳川幕府ゆかりの縁切寺・満徳寺、その驚くべき縁切り方法とは!?

縁結びにご利益のある寺社は女性に人気の観光スポットとして定着していますが、「縁切り」にご利益のある寺社はそうそう見かけません。しかし徳川幕府の時代、「縁切寺」は女性にとってありがたい救済スポットでした。現在でも縁切寺として知られる群馬県太田市の満徳寺で行われている縁切りとはどのようなものなのか?江戸時代に縁切寺が必要だった理由とともに追ってみました。
"小江戸"川越の礎を築いた「知恵伊豆」こと松平信綱

"小江戸"川越の礎を築いた「知恵伊豆」こと松平信綱

徳川家光・家綱に仕えた老中・松平信綱。その聡明さから「知恵伊豆」と呼ばれました。彼がいたからこそ、この時代が保たれたといっても過言ではありません。そんな信綱の才覚と業績を紹介すると共に、彼が礎を築いた川越のまちをご紹介します。