光秀 VS 秀吉!天下分け目の戦い「山崎合戦」の舞台・天王山でAR歴史体験
2017年6月13日 更新

光秀 VS 秀吉!天下分け目の戦い「山崎合戦」の舞台・天王山でAR歴史体験

天下分け目の戦いといえば、関ヶ原の戦い…と思う方が多いのでは?しかし、天下分け目の戦いを指す「天王山」、スポーツなどでもよく耳にしますが、実はこれ、山崎の戦いから来ているんです。山崎の戦いと言えば、悲劇の武将にして謀反人と呼ばれる明智光秀が羽柴秀吉に討たれた戦い。今回は、そんな山崎の戦いと明智光秀ゆかりの地についてご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

山崎の戦いとは

「織田信長の重臣として非常に有能だった明智光秀」

「織田信長の重臣として非常に有能だった明智光秀」

天正10(1582)年6月2日、明智光秀は織田信長が投宿する本能寺を襲撃します(本能寺の変)。これは当時、誰もが信じられない大事件でした。

一方、この一報を聞いた中国攻めの最中だった羽柴秀吉は、すぐさま兵を取って返し京都へ戻ってきます。この間、わずか10日。電光石火のこの強行軍は「中国大返し」と呼ばれています。

光秀は京都と近江を掌握すると、天下を手にするべく、周辺の有力大名に加勢を呼び掛けます。ところが、友人の細川藤孝や義理の息子・忠興らまでもが中立と称して加勢を拒否、光秀に味方する大名はほとんどいなかったのです。
その間に秀吉は軍勢を整え、光秀の兵の2~3倍(2万とも4万とも)を率いて迫ってきました。

6月13日、両軍は京都・山崎(京都府大山崎町)の天王山の麓にある円明寺川(現・小泉川)を挟んで対峙、山崎の戦いの火蓋が切って落とされます。

しかしあっさりと決着はつき、秀吉の勝利で終わったのです。光秀は落ち武者狩りに遭ったとも、自害したとも言われていますが、その最期は惨めなものでした。わずか10日余りの光秀の天下は、三日天下と呼ばれています。

この後、秀吉は着々と天下人への階段を登って行くことになるのでした。

合戦の舞台!天下分け目の天王山(京都府大山崎町)

天王山からの山崎合戦地

天王山からの山崎合戦地

標高270mの天王山は、山崎の戦いの舞台となった場所です。「天下分け目の天王山」の由来となりました。

ハイキングコースを歩けば約1時間で山頂に行けます。
中腹にある旗立松展望台は、秀吉が士気高揚のために自身の千成瓢箪の旗印を掲げた場所といわれています。傍には山崎合戦之地碑もありますが、実際の古戦場はこの展望台から見える麓のあたりだそう。

天下分け目の戦いといわれるということは、光秀の力も秀吉に匹敵すると考えられていたのではないでしょうか。出自は不詳ながらも、自分の力で信長の重臣にまでのし上がったのですから。
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光秀の本陣があった?恵解山古墳(京都府長岡京市)

光秀の本陣は「御坊塚」という所におかれたと記録があり、今まではそれが大山崎町の境野1号墳という墳墓だとされていました。しかし近年では、隣接する長岡京市にある恵解山古墳なのではという説が有力です。火縄銃の鉄砲玉や曲輪と堀の跡があり、墳墓がそれによって損傷していたためです。光秀が砦をつくるために古墳を平らに成形したのではと考えられています。

恵解山古墳は平成26(2014)年に公園となっています。5世紀前半に造られたと思われる墳墓を見学しつつ、光秀の決死の布陣に思いを馳せるのもいいですね。

勝竜寺城公園(京都府長岡京市)

「細川藤孝・忠興の居城でもあった勝竜寺城(現在は勝竜寺...

「細川藤孝・忠興の居城でもあった勝竜寺城(現在は勝竜寺城公園)」

細川氏の城だった勝竜寺城は、本能寺の変後に光秀の属城となりました。細川忠興と、光秀の娘・ガラシャ(珠)が新婚生活を送った城でもあります。
山崎の戦いに敗れた後、光秀はここに帰城しますが、秀吉の追撃を受け、城の北門から脱出したといわれています。そして本拠地・坂本城に帰る途中に落命したのです。

秀吉の本陣があった宝積寺(京都府大山崎町)

「宝積寺の開祖は行基、聖武天皇の頃とされる」

「宝積寺の開祖は行基、聖武天皇の頃とされる」

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