第10回:エピソード満載!早稲田大学創設者・大隈重信ゆかりの地【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】
2018年3月30日 更新

第10回:エピソード満載!早稲田大学創設者・大隈重信ゆかりの地【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第10回は大隈重信ゆかりの地です。早稲田大学創設者であり、総理大臣に二度も就任している大隈は、日本で初めて始球式を行うなど、エピソードの宝庫でもあります。青年時代から新政府の中枢に入るまでの、とくに興味深いエピソードとゆかりの地をご紹介します。

小栗さくら小栗さくら

井上馨

井上馨

長州藩出身。維新後は要職を歴任します。
賞典禄(しょうてんろく/明治維新に功労のあった者に与えられた禄)ももらえなかった大隈は、さぞ苦労して政府の中に入っていったのだろうと思うところですが、意外な人物によって引き上げられます。
それは長州藩の井上馨です。井上の推挙により、木戸孝允や薩摩の小松帯刀・黒田清隆も大隈を推すようになったといわれています。
この後大隈は、井上や木戸、伊藤博文らと協力していくことになりますが、彼の長い政治家人生のにおいて、こうした人物とも対立を繰り返すのでした。

英国公使・パークスとの対決

ハリー・パークス

ハリー・パークス

英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間、駐日英国公使を務めます。
のちに素晴らしいスピーチ力で民衆を惹きつけた大隈ですが、明治初年にその素地が見えるエピソードがあります。

開国後に教会が増え、信仰が公然化してしまった長崎。新政府は、キリスト教の禁教令を引き継いでいたため、こうした信徒に厳罰を与えていました。そのことに各国から強い抗議が上がり、外交問題に発展してしまったのです。この問題を解決するため交渉役となったのが大隈でした。それに対峙するのは、イギリス公使・パークスです。

談判で先手を打ったのはパークスでした。
大隈のような身分の低い一判事とは談判しないと、初っ端から怒鳴りつけてきたのです。しかし大隈は、パークスがこうした手法を用いてくることを知っていたため、努めて冷静に対処します。
政府の代表として来た自分と談判しないということは、抗議を撤回したと考えてよいのか、と反論します。これにはパークスも何も返せず、議論を始めざるを得ません。その後もパークスが声を荒げたり机を叩くなどの行為があったようですが、大隈はそれに乗せられることはなかったそうです。

パークスのさまざまな発言に対し大隈は、日本は日本の国法で処罰をしているので、それへの抗議は内政干渉であること、キリスト教が歴史上何度も戦争を引き起こしていることなど、これまで学んだ知識を活かして主張しました。
結局この時に結論は出ませんでしたが、以後パークスは大隈を認め、横須賀製鉄所のフランス借款問題でも手を貸してくれることになります。佐賀藩で学んだ洋学の知識はここで活かされたのですね。

早稲田大学の創設者

「明治14年の政変」で政界を下野した大隈は、政党を作る一方で、ブレーンである小野梓とともに、早稲田大学の前身「東京専門学校」を設立します。その設立の趣旨は「学問の独立」でした。

ところが大隈は、開校式に出席しなかったばかりか、その後15年もの間、一度も登壇することはなかったのです。その理由は、東京専門学校が政府に「大隈の私学校」だと思われていたからでした。5年前の西南戦争での「西郷の私学校」と同じ扱いです。実際、開校後には政府や反対政党からの妨害があったのだとか…。

そのため大隈は、疑いが完全に晴れたであろう開校15年に、初めて学校の公の場に立ったといわれています。
現在の早稲田大学

現在の早稲田大学

大隈が早稲田大学の初代総長になったのは、明治40年(1907)4月のことでした。

東京専門学校から早稲田大学へ

その後発展を続けた東京専門学校は、明治35年(1902)に「早稲田大学」と改称します。法制度上は専門学校の扱いでしたが、実質大学としての機能を持つ学校となっていました。

早稲田大学の開校式に祝賀演説を行ったのは伊藤博文で、その演説は、かつて私学校として疑ったことを懺悔する内容のものでした。
大隈は、国家の意図に左右される可能性のある「国立」ではなく、国民の手による「私立」の大学として発展させることにこだわっていたようです。

そして大隈の死の2年前である大正9年(1920)、早稲田大学は大隈の望んだ大学令による大学となったのでした。
大隈講堂

大隈講堂

大正11年(1922)に亡くなった大隈の業績を記念するために建造された大隈講堂。時計台の高さは125尺(約38メートル)に設計されています。この数字は、大隈が人生125歳説を唱えていたことにちなんでいるのだとか。

12歳年下の妻・綾子

大隈綾子

大隈綾子

大隈が生涯をともにした2度目の妻は、旗本の娘・綾子でした。綾子は幕臣・小栗(上野介)忠順の従妹にあたります。
大隈より12歳年下の綾子は、優れた気性と決断力を持っていたといわれています。親を亡くした小栗忠順の娘や、大隈と同郷の江藤新平の息子を引き取ったり、「明治14年の政変」で大隈が免官となった時には節約や土地の売買で支えた女性です。

二人の仲睦まじさは相当なものだったようで、こんなエピソードも残っています。
旅行好きの大隈が旅先で寛いでいたときのこと。綾子が大隈の方にキセルを差し出してきました。ここで大隈が吸うのかと思いきや、大隈はキセルに煙草を詰めて返してやり、綾子はそれをおいしそうに吸ったというのです。

このエピソードは綾子の「かかあ天下」として語られることもありますが、2人は社寺を詣でるときも帰郷するときも必ず傍にいたというほど仲睦まじかったのだとか。
そのため、早稲田大学の大隈像の視線は綾子像の方を見ている、といわれているそうですよ。
34 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

小栗さくら

小栗さくら

中学生時代に司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』を読んで以来、歴史に興味を持つ。 駒澤大学歴史学科卒業と同時に博物館学芸員資格を取得。 現在『歴史タレント』として、TVやCMに出演。また、イベント司会、講演会、コラム執筆と幅広く活躍中。 諏訪市公認キャラクター・諏訪姫の声優も務めている。 タレント活動と並行し「さくらゆき」というアーティスト名で歴史をテーマにした楽曲の発信、ライブ等を行っている『歴史系アーティスト』でもある。 公式

関連する記事 こんな記事も人気です♪

幕末維新に活躍した肥前佐賀藩の先人「佐賀の七賢人」まとめ

幕末維新に活躍した肥前佐賀藩の先人「佐賀の七賢人」まとめ

幕末から明治にかけて、数多くの人材を輩出した肥前佐賀藩。その中でも中心的な役割を果たした7人を「佐賀の七賢人」と呼びます。幕末の佐賀藩主・鍋島直正や、早稲田大学創設者の大隈重信などの有名人から知られざる?人物まで、七賢人をまとめてご紹介。3月17日(土)から始まる「肥前さが幕末維新博覧会」の予習にどうぞ!
警察博物館“大警視コーナー”は必見!日本警察の父・川路利良ゆかりの品とその軌跡【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】第15回

警察博物館“大警視コーナー”は必見!日本警察の父・川路利良ゆかりの品とその軌跡【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】第15回

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第15回は、現在の警視総監にあたる初代大警視・川路利良ゆかりの地。川路ゆかりの品が多く展示されている東京の警察博物館を中心に、出生地・鹿児島にある銅像まで、その生涯を辿ります。
戊辰戦争150周年の今こそ見るべき!国立公文書館『戊辰戦争―菊と葵の500日―』展

戊辰戦争150周年の今こそ見るべき!国立公文書館『戊辰戦争―菊と葵の500日―』展

明治維新、そして戊辰戦争から150年の今年、全国各地で関連イベントが開催されています。2018年5月26日~6月30日まで東京・国立公文書館では「戊辰戦争―菊と葵の500日―」と題した企画展が開催中。日本各地で行われた戦闘の記録や、参加した人物にまつわる資料から、戊辰戦争の実像に迫ります。同館ならではの豊富な所蔵品は必見!その展示内容をレポートします。
佐賀発祥の『葉隠』を体感しながら学ぶ!肥前さが幕末維新博「葉隠みらい館」

佐賀発祥の『葉隠』を体感しながら学ぶ!肥前さが幕末維新博「葉隠みらい館」

江戸時代の武士の心得がまとめられた『葉隠(はがくれ)』。伝え継がれて300年、今も多くの著名人に影響を与えています。その『葉隠』の魅力を体感しながら学べるのが、佐賀県で開催中「肥前さが幕末維新博覧会」のテーマ館である「葉隠みらい館」です。今あなたに必要な葉隠の名言を探し、今をより良く生きる“意志”を発見してみませんか?
激動の時代を生きた「最後の浮世絵師」月岡芳年の画業を辿る

激動の時代を生きた「最後の浮世絵師」月岡芳年の画業を辿る

まるで現在の漫画のような躍動感のある月岡芳年の浮世絵。歴史好きなら一度は見たことのあるのでは?幕末に生まれ明治にかけて活躍した芳年の展覧会「芳年ー激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」が8月5日(日)より練馬区立美術館で開催されます。最後の浮世絵師と呼ぶにふさわしい画業を堪能できる貴重な機会です。
2018年は明治維新150年!夏に開催のおすすめ企画展5選

2018年は明治維新150年!夏に開催のおすすめ企画展5選

明治維新150年にあたる今年。高知や山口などの主要箇所もちろん、全国各地で企画展が開催されています。普段の歴史旅や夏休みにプラスしたい企画展の内容をご紹介します。
【菊次郎・菊草・寅太郎】西郷隆盛の子供たちはどんな人生を送った?

【菊次郎・菊草・寅太郎】西郷隆盛の子供たちはどんな人生を送った?

西郷隆盛には2番目の妻・愛加那(あいかな)との間に2人、3番目の妻・糸子との間に3人の子供がいました。早くに父と死に別れた彼らは、どんな人生を歩んだのでしょうか。父譲りの才能を発揮した者、不幸な結婚生活をした者…そんな様々な人生模様を、墓所やゆかりの地とともにご紹介します。
全国から新選組ファンが大集結!「ひの新選組まつり」レポート

全国から新選組ファンが大集結!「ひの新選組まつり」レポート

新選組副長・土方歳三が生まれた地であり、局長・近藤勇や沖田総司らが腕を磨いた天然理心流の道場があった東京・日野。彼らの故郷といえるこの地で、今年も「ひの新選組まつり」が5月12日(土)と13日(日)に開催されました。ファンなら参加せずにはいられない!メインとなる13日(日)の模様をお届けします。
西郷隆盛像の場所も戦場だった!上野戦争に散った彰義隊の墓

西郷隆盛像の場所も戦場だった!上野戦争に散った彰義隊の墓

いまや上野のシンボルともいえる西郷隆盛像。その近くに墓があるのをご存知でしょうか?鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争のひとつ「上野戦争」は、1日で上野が焼け野原になるほど激しいものでした。この地にて壮絶に散ったのが彰義隊です。新選組隊士だった原田左之助も所属していた、彼らの墓をご紹介します。
第14回:大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】

第14回:大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第14回は、大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」ゆかりの地。明治11年(1878)5月14日、現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷で不平士族によって暗殺された大久保。今回は、大久保が自宅から暗殺場所まで馬車で通ったルートを当時の古地図とともにたどります。