桐野は人斬りのほかに「無学文盲」というイメージもついていますが、祖父の影響で軍書や戦記をよく読んでいたため、全くの無学というわけではありませんでした。「文盲」というのは、桐野が謙遜して言っていたのと、漢文が得意ではなかったことからのようですね。
また、剣術については、小示現流あるいは薬丸自顕流といわれ、「軒の雨だれが落ちる前に三度抜き打ちができた」とか「立木打ちで庭木を枯らしたほど武芸に打ち込んだ」といった逸話が伝わっています。剣術に打ち込んだのも、バカにされたくないという思いがあったのでしょうか。
また、剣術については、小示現流あるいは薬丸自顕流といわれ、「軒の雨だれが落ちる前に三度抜き打ちができた」とか「立木打ちで庭木を枯らしたほど武芸に打ち込んだ」といった逸話が伝わっています。剣術に打ち込んだのも、バカにされたくないという思いがあったのでしょうか。
師・赤松小三郎の殺害
軍学者・英学者の赤松小三郎は、薩摩藩に招かれて京で私塾を開いていました。その塾生は薩摩藩士だけでなく他藩の志士のほか、新選組までいたようです。島津久光の上京に伴い、京行きに加わっていた桐野も赤松の門下生の一人でした。
しかし桐野は、師であるはずの赤松を殺害してしまいます。桐野が自分から斬りに行ったと明確に分かっている唯一の「人斬り」です。
しかし桐野は、師であるはずの赤松を殺害してしまいます。桐野が自分から斬りに行ったと明確に分かっている唯一の「人斬り」です。
桐野が赤松を斬った理由は、一言でいえば赤松が間者と見なされていたからです。赤松自身は、薩摩と幕府が手を携える「幕薩一和」の考えを持っていましたが、慶応3(1867)年、政局は赤松が思っていたよりも悪化していました。
そこで会津藩は、真意が見えない薩摩への対策として、「赤松を通して薩摩藩の内情を探索してほしい」と上田藩に要請していました。
桐野らはこうした情報を得て、赤松を密偵とみなし殺害に及んだのでしょう。桐野の日記には赤松のことを「幕奸(幕府の間者)であることが明らかになった」と書かれています。桐野は薩摩藩の密偵・監察として動いていたので、殺害は独断ではなく指示があったのかもしれません。
そこで会津藩は、真意が見えない薩摩への対策として、「赤松を通して薩摩藩の内情を探索してほしい」と上田藩に要請していました。
桐野らはこうした情報を得て、赤松を密偵とみなし殺害に及んだのでしょう。桐野の日記には赤松のことを「幕奸(幕府の間者)であることが明らかになった」と書かれています。桐野は薩摩藩の密偵・監察として動いていたので、殺害は独断ではなく指示があったのかもしれません。
昇進した戊辰戦争
via ja.wikipedia.org
鳥羽伏見の戦いでは小頭見習いという下士官だった桐野は、この戦いでの活躍以降昇進し、会津戦争では城受け取りの軍監という大役を務めています。
この時の話として有名なのが、アーネスト・サトウが書き残した桐野の記述。城を受け取りに行った桐野は、松平容保父子の姿に「男泣きに泣いたという」と書かれ、桐野自身も「涙を禁じえなかった」としています。
戦後処理も親身になり、温情あるものだったとか。桐野の人情家の一面が見えてくるようですね。
この時の話として有名なのが、アーネスト・サトウが書き残した桐野の記述。城を受け取りに行った桐野は、松平容保父子の姿に「男泣きに泣いたという」と書かれ、桐野自身も「涙を禁じえなかった」としています。
戦後処理も親身になり、温情あるものだったとか。桐野の人情家の一面が見えてくるようですね。
西南戦争へ
私学校設立
明治6年の政変(征韓論政変)で西郷が下野すると、桐野や多くの薩摩出身の近衛兵も鹿児島へと帰ります。その数は600人に上ったとか。
政府に不満を抱くばかりの彼らの行き場として、西郷や桐野らは「私学校」を設立します。これは次第に鹿児島各地に拡大し、鹿児島の政治や軍事とも深く関わりを見せるようになっていきました。
桐野は、私学校の設立に関わりながらもそこから距離を置いていたといいます。それは生徒たちの品行が正しくなく、教鞭をとる側である同僚にも快い印象がなかったからだったとか。
また、桐野は西郷を尊敬しましたが、日頃から共にいたわけではなかったそうです。常に西郷の傍にいたのは、村田新八や篠原国幹だったといわれています。
政府に不満を抱くばかりの彼らの行き場として、西郷や桐野らは「私学校」を設立します。これは次第に鹿児島各地に拡大し、鹿児島の政治や軍事とも深く関わりを見せるようになっていきました。
桐野は、私学校の設立に関わりながらもそこから距離を置いていたといいます。それは生徒たちの品行が正しくなく、教鞭をとる側である同僚にも快い印象がなかったからだったとか。
また、桐野は西郷を尊敬しましたが、日頃から共にいたわけではなかったそうです。常に西郷の傍にいたのは、村田新八や篠原国幹だったといわれています。