【始まりは家康時代の駿府!】吉原遊郭の発祥は静岡にあり
2017年2月7日 更新

【始まりは家康時代の駿府!】吉原遊郭の発祥は静岡にあり

江戸時代に遊女屋が集まる公許の遊廓として作られた吉原ですが、元は駿府(今の静岡県)にあったのだそうです。一体どのような経緯で江戸へ移ってきたのか、また日本橋から浅草へ移転した理由とは何だったのでしょうか。意外と知らない吉原の歴史をご紹介します。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

遊郭設置は徳川家康が恩師にお願いされたから?

駿府城

駿府城

天正13(1585)年、徳川家康が駿府(現在の静岡市)を本拠地と定め、築城したのが駿府城でした。駿府と言えば、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、春風亭昇太さん演じる今川義元が本拠地にしている町ですね。多くの大名や武士、農民や町人が集まり城下町を形成しましたが、同時に遊女や女歌舞伎も集まって来たのです。しかし女性が少なかったために争い事が絶えず、家康は彼女らを追放するように命じました。

この状況の中、家康の鷹匠組頭・伊部勘右衛門が、引退と同時に遊郭の設置を願い出たのです。こよなく愛した鷹狩りの鷹匠の願いということで、家康もOKを出しました。そして勘右衛門は駿府城下に土地1万坪を買い、自身も伏見屋という店を出して遊郭をつくったのです。この一部が後に江戸に移り、吉原遊郭となったのでした。
歌川広重筆 『五十三次名所図会 府中、安部河みろく 二...

歌川広重筆 『五十三次名所図会 府中、安部河みろく 二丁町』二丁町遊郭の情景。

駿府城下に造られた二丁町遊郭。
静岡県地震防災センターのあたりが「二丁町遊郭」があったとされる場所だそう。

江戸に開かれた吉原遊郭

天正18(1590)年、家康は駿府から江戸に移り、やがて江戸幕府を開きました。江戸は京都と肩を並べる一大都市に発展し、多くの遊女屋ができ始めたのです。
しかし、都市整備に伴い、移転を余儀なくさせられたのはいつも遊女屋でした。そこで、遊女屋を経営する面々が遊郭の設置を願い出ます。そして、元和3(1617)年になって、幾つかの条件付きで正式に遊郭の設置許可が下りたのでした。これが吉原の始まりです。
最初に作られたのは現在の日本橋人形町付近で、後の「新吉原」に対し「元吉原」と呼ばれました。

吉原の語源には2つの説があります。
ひとつは、遊郭設置を陳情した庄司甚内の出身地が東海道の吉原宿であったという説。もうひとつは、遊郭が葦の茂る低湿地につくられ、「葦」の読みは「悪し」に通じることからそれを避けて「吉」とし、吉原という名になったという説があります。
元吉原があった人形町大門通り周辺。近くには、明暦の大火で吉原が移転するまで吉原の地主神として信仰された末廣神社があります。

日本橋から浅草へ移転した理由

歌川広重『名所江戸百景』より江戸時代当時の吉原を描いた...

歌川広重『名所江戸百景』より江戸時代当時の吉原を描いた「廓中東雲」

元吉原に対し、浅草に移転してからの吉原は新吉原と呼ばれました。
なぜ移転することになったのかというと、江戸の町が巨大化し、大名屋敷が元吉原の方まで拡大してきたためでした。明暦2(1656)年10月、幕府命令によって、吉原は浅草に移転することが決定します。

それからまもなくの明暦3(1657)年1月、明暦の大火が発生します。別名「振袖火事」としても有名なこの火事によって、江戸の大半が焼失することとなってしまいました。もちろん吉原も例外ではなかったのです。このため、明暦の大火以後、吉原は浅草での営業を開始します。これが「新吉原」です。

今も残る「吉原大門」という交差点は、吉原の唯一の出入口があった場所です。また、お歯黒溝(どぶ)という巨大な溝が掘られ、遊女の逃亡を防ぐ意味合いもあって外と内を隔てていました。最初の頃は幅が9mもある溝だったそうですよ。

この頃の吉原には、花魁が所属する高級な大店もありました。ここには大名や文化人、裕福な町人が集まって一大サロンを形成するまでになり、人身売買という暗い側面を持ちながらも文化の発信地としての役割を持つことになったのでした。
江戸末期の新吉原の見取り図

江戸末期の新吉原の見取り図

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