【スイーツの歴史】日本で最初のアイスクリームが誕生した横浜・馬車道
2018年5月9日 更新

【スイーツの歴史】日本で最初のアイスクリームが誕生した横浜・馬車道

夏はもちろん、1年中食べたくなるアイスクリームですが、日本人がアイスクリームと出会ったのは江戸末期。幕府が派遣した使節団が訪問先のアメリカで食べたのが最初といわれています。その後、日本で最初のアイスクリームが横浜で作られました。そんな文明開化の波に乗った日本のアイスクリームの歴史を紐解いてみましょう。

ユカリノ編集部ユカリノ編集部

 (19071)

古代のアイスクリームは「健康食品」だった!?

アイスクリームの始まりはシャーベットのようなもので、古代では疲れた体を元気にする「健康食品」として利用されていたようです。

日本でも4世紀後半、仁徳天皇の時代に奈良に「氷室」が作られ、氷が食べられていたといわれています。
氷室とは冬の間に集めた氷を貯蔵し食料を冷蔵した穴のことで、いわば自然の冷蔵庫のようなものです。

また平安時代になると『枕草子』や『源氏物語』に「削り氷」という氷菓が登場します。
これは氷を砕いて「あまづら」(つたの蜜)をかけたもので、清少納言は「あてなるもの(上品なもの)」と絶賛しています。
清少納言

清少納言

現代でいうかき氷を早くも食していた清少納言。

日本人で初めてアイスクリームの食べたのは?

海外では16世紀半ばにイタリアでものを冷やす技術が発達し、アイスクリームにも生かされるようになります。
現在のアイスクリームの原型に近づいたのが1720年。パリのアイスクリーム専門店にて、ホイップクリームを凍らせたアイスや、卵を使ったものなどが次々に生み出されました。

そんなアイスクリームを初めて食べた日本人は、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准のため渡米した徳川幕府一行といわれています。
使節団一行には勝海舟や福沢諭吉も乗船。もしかしてアイス...

使節団一行には勝海舟や福沢諭吉も乗船。もしかしてアイスクリームを食べたかも!?

船中での晩餐に供されたアイスクリームを食べた使節団員の柳川当清が「味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、まことに美味なり。之をアイスクリンといふ」と、当時の様子を航海日記に書き残しています。

横浜・馬車道で日本初の「あいすくりん」誕生

明治期の横浜。こちらは馬車道通りに近い元町通り。

明治期の横浜。こちらは馬車道通りに近い元町通り。

日本で最初のアイスクリームが誕生したのが明治2年(1869)6月。
渡米経験のある町田房蔵が、横浜・馬車道通りで「氷水屋」を開店、「あいすくりん」の製造販売を始めました。
そのお値段は当時の通貨で2元。現在の価値に換算するとなんと約8000円!
かなり高価だったため、初めは外国人にしか売れなかったようです・・・。

当時のアイスを現代風にアレンジした「できたて横濱馬車道あいす」

できたて横濱馬車道あいす・カスタード

できたて横濱馬車道あいす・カスタード

「できたて横濱馬車道あいす」を販売する「YOKOHAMA BASHAMICHI ICE」は横浜赤レンガ倉庫2号館の1階にあります。
卵黄と牛乳、砂糖のみで作られた当時のアイスクリームは、カスタード風味のシャリッとした食感が特徴だったとか。その風味を現代風にアレンジして再現した「できたて横濱馬車道あいす・カスタード」が、横浜赤レンガ倉庫で販売されています。
さっぱりとしたカスタード風味のアイスクリームと最中の食感がたまらない逸品、ぜひおためしあれ。
24 件

この記事のキーワード

この記事のキュレーター

ユカリノ編集部

ユカリノ編集部

全国各地の「ゆかりの」エピソードをほぼ毎日お届け。知ればもっと行きたくなる、歴史の聖地巡礼へご案内します! 公式

関連する記事 こんな記事も人気です♪

三浦按針と徳川家康を大河ドラマに!ゆかりの地・横須賀市に聞いた誘致活動

三浦按針と徳川家康を大河ドラマに!ゆかりの地・横須賀市に聞いた誘致活動

大河ドラマ誘致戦国時代といわれる昨今。その経済効果は数十億円ともいわれ、各自治体は地元の偉人を大河ドラマの主役にとPRしています。その中から今回は、ウィリアム・アダムズこと三浦按針と徳川家康を主役にした大河ドラマ化に向け活動している神奈川県横須賀市をピックアップ。家康に重用された英国人・按針とはどのような人物だったのか?初の外国人大河ドラマの主役になるかもしれない、そのドラマチックな生涯を、ゆかりの地の声とももにご紹介します。
温泉を愛した武将たちの記録も!国立公文書館「温泉~江戸の湯めぐり~」展

温泉を愛した武将たちの記録も!国立公文書館「温泉~江戸の湯めぐり~」展

日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会や紀行文などを通して、温泉地の情報が広く流布しました。多くの人々が訪れ、温泉は次第に湯治場としてだけではなく、行楽地としても賑わうようになります。国立公文書館では平成31年1月26日(土)〜3月9日(土)の期間、江戸時代の資料を中心に人々と温泉の関わりを紹介する企画展「温泉~江戸の湯めぐり~」を開催。その見どころをご紹介します。
「西郷どん」だけじゃない!様々な150年の節目を迎えた2018年歴史トピックスを総括【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:最終回】

「西郷どん」だけじゃない!様々な150年の節目を迎えた2018年歴史トピックスを総括【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:最終回】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載も、今回で最終回。2018年は、明治150年の記念の年であり、大河ドラマ「西郷どん」放送も手伝って、幕末から明治にまつわる歴史ニュースやイベントが絶えない1年となりました。幕末維新志士たちの生涯をゆかりの地とともに紹介した本連載と、小栗さくら自身が感じた今年の歴史トピックスを総括します!
【大阪の大恩人】大阪を建て直した五代友厚の功績とゆかりの地

【大阪の大恩人】大阪を建て直した五代友厚の功績とゆかりの地

NHKの朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じ、一躍人気が出た五代友厚。西郷隆盛や大久保利通より少し下の世代ですが、薩摩藩士だった五代は、彼らや他の志士たちとも交流がありました。薩摩を離れ、大阪経済の建て直しと近代化に人生を捧げた彼の生涯とゆかりの地をご紹介します。
新設!「高輪ゲートウェイ駅」周辺の歴史と背景を探る【古地図と巡る江戸街並み探訪:第6回】

新設!「高輪ゲートウェイ駅」周辺の歴史と背景を探る【古地図と巡る江戸街並み探訪:第6回】

JR山手線の田町駅から品川駅の間に新設される駅が「高輪ゲートウェイ駅」とされることが発表され、色々と話題になっています。公募では下位にあった候補でしたが、「高輪」「芝浦」「芝浜」と言った歴史的名称を抑えて、一躍の採用。「ゲートウェイ」とは「玄関口」の意味。今回は、その背景や周辺の歴史を、古地図と今後の都市構想から探ってみます。
【将軍の御落胤】江戸初期の三名君のひとり・保科正之とゆかりの地

【将軍の御落胤】江戸初期の三名君のひとり・保科正之とゆかりの地

徳川秀忠の四男ながらもその存在を隠された保科正之は、典型的な「御落胤」でした。のちに保科家を継いだ彼は、家臣として将軍家を支え続け、後の会津松平家の祖となったのです。今も名君として伝わる保科正之の数奇な人生をゆかりの地とともにご紹介しましょう。
村田新八は“大久保に次ぐ人傑”!西南戦争まで西郷とともに歩んだ生涯【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:第26回】

村田新八は“大久保に次ぐ人傑”!西南戦争まで西郷とともに歩んだ生涯【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:第26回】

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第26回は、村田新八です。幕末期から西郷隆盛と行動を共にした村田は、あの勝海舟も「大久保に次ぐ人傑」と評したほどの人物でした。大河ドラマ「西郷どん」では描かれなかった村田の功績とは?最期まで西郷とともに歩んだその生涯を追ってみます。
【野心なき大物・大山巌】西郷の肖像画のモデル、西洋かぶれの一面も?

【野心なき大物・大山巌】西郷の肖像画のモデル、西洋かぶれの一面も?

西郷隆盛のいとこであり、西郷の肖像画のモデルのひとりになったと言われる大山巌。大河ドラマ「西郷どん」には登場しませんでしたが、戊辰戦争で頭角を現した大山は、西南戦争では西郷と戦い、やがて新政府の重鎮となりました。西洋文化に傾倒し、政治的野心とは無縁のおおらかな人物だったようです。そんな大山巌の生涯とゆかりの地をご紹介します。
徳川幕府ゆかりの縁切寺・満徳寺、その驚くべき縁切り方法とは!?

徳川幕府ゆかりの縁切寺・満徳寺、その驚くべき縁切り方法とは!?

縁結びにご利益のある寺社は女性に人気の観光スポットとして定着していますが、「縁切り」にご利益のある寺社はそうそう見かけません。しかし徳川幕府の時代、「縁切寺」は女性にとってありがたい救済スポットでした。現在でも縁切寺として知られる群馬県太田市の満徳寺で行われている縁切りとはどのようなものなのか?江戸時代に縁切寺が必要だった理由とともに追ってみました。
文明開化の味!明治「牛鍋」事始め【偉人が愛した肉料理:第8回】

文明開化の味!明治「牛鍋」事始め【偉人が愛した肉料理:第8回】

毎月29日の「肉の日」にちなみ、食文化史研究家の永山久夫さんが偉人の愛した肉料理を紹介する連載。今回は、11月29日「良い肉の日」ということで、明治の偉人たちも愛した牛鍋に注目。文明開化の象徴として、“食わない奴は時代遅れ”とされた牛鍋の歴史を辿ります。