応天門、炎上!
事件が起こったのは貞観8年(866)閏3月10日のこと。平安京の大内裏の中にあった、朝堂院(八省院)の南門にあたる応天門が、深夜に突如炎上したのです。
そもそも朝堂院とは、朝廷内での政務や重要な儀式を行う、現在の国会議事堂に相当する施設で、応天門はその正門の役目を果たす重要な門でした。それが一夜にして焼失してしまったことから、大騒動になったわけです。
やがて、応天門の炎上は放火であることが判明し、当初は大納言・伴善男(とものよしお)の証言により、左大臣・源信(みなもとのまこと)が犯人として告発されます。ところが、太政大臣・藤原良房の進言により、源信は罰せられず、今度は逆に、密告によって伴善男に放火の嫌疑がかけられ、流罪に処せられてしまいました。
そもそも朝堂院とは、朝廷内での政務や重要な儀式を行う、現在の国会議事堂に相当する施設で、応天門はその正門の役目を果たす重要な門でした。それが一夜にして焼失してしまったことから、大騒動になったわけです。
やがて、応天門の炎上は放火であることが判明し、当初は大納言・伴善男(とものよしお)の証言により、左大臣・源信(みなもとのまこと)が犯人として告発されます。ところが、太政大臣・藤原良房の進言により、源信は罰せられず、今度は逆に、密告によって伴善男に放火の嫌疑がかけられ、流罪に処せられてしまいました。
応天門の変を描いた『伴大納言絵詞』
平安時代末期に描かれた『伴大納言絵詞』。当時の人々の様子がわかる史料として、また人物や炎の表現に優れた美術品として、大変貴重な絵巻とされています。
一時期は最上義光も所有したといわれ、その後、若狭の酒井家に伝来し、現在は出光美術館(東京都)に所蔵されています。
一時期は最上義光も所有したといわれ、その後、若狭の酒井家に伝来し、現在は出光美術館(東京都)に所蔵されています。
事件の発端は、大伴氏と藤原氏の争い
応天門の変が起こった背景としては、まず、伴善男と源信の不仲が考えられます。貞観6年(864)に伴善男は、源信に謀反の噂があることを主張していたという記録からも、両者の確執は明白でした。
当初、伴善男は、伴氏が造営した応天門を、源信が呪って火をつけたと証言します。しかしそれは、源信を失脚させ、自らが大納言から右大臣に昇進するための画策だったといわれています。
(ちなみに当時は大納言→右大臣→左大臣の順に偉くなります)
当初、伴善男は、伴氏が造営した応天門を、源信が呪って火をつけたと証言します。しかしそれは、源信を失脚させ、自らが大納言から右大臣に昇進するための画策だったといわれています。
(ちなみに当時は大納言→右大臣→左大臣の順に偉くなります)
さらにこの事件の大きな背景として存在するのが、大伴氏と藤原氏の権力争いです。大伴氏とは、大伴親王(のちの淳和天皇)の諱を避けて氏を改めた伴氏のことで、古代には、物部氏とともに軍事を担当し、政治面でも活躍した名族です。
一方、藤原氏は、大化の改新の中心人物である中臣鎌足を祖とする新興の一族で、奈良時代以降、その勢力を拡大していました。
一方、藤原氏は、大化の改新の中心人物である中臣鎌足を祖とする新興の一族で、奈良時代以降、その勢力を拡大していました。
古代より続く名族を排斥した藤原氏
特に藤原良房の時代には、承和9年(842)に起きた承和の変を皮切りに、伴氏、橘氏、紀氏といった古代より続く名族を、朝廷から排斥する動きを活発化させます。
伴善男はこれに対抗しようとしますが、「応天門の変」を機に伴氏は政界の中枢から完全に排除され、対する藤原良房は、事件後に清和天皇の摂政となり、藤原氏の権勢を確立する摂関政治への道を開くこととなりました。
伴善男はこれに対抗しようとしますが、「応天門の変」を機に伴氏は政界の中枢から完全に排除され、対する藤原良房は、事件後に清和天皇の摂政となり、藤原氏の権勢を確立する摂関政治への道を開くこととなりました。